原子爆弾投下都市の選定経緯
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「日本への原子爆弾投下」の記事における「原子爆弾投下都市の選定経緯」の解説
広島と長崎が原子爆弾による攻撃目標となった経緯は、日本の各都市への通常兵器による精密爆撃や焼夷弾爆撃が続けられる中で、以下のようなものであった。 1943年5月5日の軍事政策委員会で最初の原子爆弾使用について議論がなされ、トラック島に集結する日本艦隊に投下するのがよいというのが大方の意見であった。 1944年11月24日から翌3月9日は通常兵器による空爆第一期で、軍需工場を主要な目標とした精密爆撃が行われた。ただし、カーチス・ルメイ陸軍少将による焼夷弾爆撃も実験的に始められていた。 ついで、1945年3月10日から6月15日は通常兵器による空爆第二期で以下のような大都市の市街地に対する焼夷弾爆撃が行われた。 1945年3月10日 東京大空襲 1945年3月12日 名古屋大空襲 1945年3月13日 大阪大空襲 1945年3月17日 神戸大空襲 1945年4月12日のルーズベルトの急死により、副大統領であったトルーマンが大統領に就任した。ルーズベルトの原子爆弾政策を継いだトルーマンに、「いつ・どこへ」を決定する仕事が残された。4月25日にスティムソン陸軍長官と、マンハッタン計画指揮官グローヴスがホワイトハウスを訪れ、原爆投下に関する資料を提出した。しかしこの際トルーマンは、「資料を見るのは嫌いだ」と語ったという。 1945年4月中旬から5月中旬に、沖縄戦を支援するため九州と四国の飛行場を重点的に爆撃し、大都市への焼夷弾爆撃は中断された。このため京都大空襲が遅れた。 1945年4月27日、陸軍の第1回目標選定委員会 (Target Committee) において以下の決定がなされた。これはアメリカ政府に対しては極秘の元に行われた。 日本本土への爆撃状況について、第20航空軍が「邪魔な石は残らず取り除く」という第一の目的をもって、次の都市を系統的に爆撃しつつあると報告した。東京都区部、横浜市、名古屋市、大阪市、京都市、神戸市、八幡市、長崎市。 次の17都市および地点が研究対象とされた。東京湾、川崎市、横浜市、名古屋市、京都市、大阪市、神戸市、広島市、呉市、下関市、山口市、八幡市、小倉市、福岡市、熊本市、長崎市、佐世保市。 1945年5月10日と11日の第2回目標選定委員会がロスアラモスのオッペンハイマー博士の執務室で開かれ、8月初めに使用予定の2発の原子爆弾の投下目標として、次の4都市が初めて選定された。 京都市:AA級目標 広島市:AA級目標 横浜市:A級目標 小倉市:A級目標 このとき以下の3基準が示された。 直径3マイルを超える大きな都市地域にある重要目標であること。 爆風によって効果的に破壊しうるものであること。 来る8月まで爆撃されないままでありそうなもの。 1945年5月28日、第3回目標選定委員会が開かれた。京都市、広島市、新潟市に投下する地点について重要な決定がされ、横浜市と小倉市が目標から外された。 投下地点は、気象条件によって都度、基地で決定する。 投下地点は、工業地域の位置に限定しない。 投下地点は、都市の中心に投下するよう努めて、1発で完全に破壊する。 これらの原子爆弾投下目標都市への空爆の禁止が決定された。禁止の目的は、原爆のもたらす効果を正確に測定把握できるようにするためである。これが目標となった都市に「空襲がない」という流言を生み、一部疎開生徒の帰郷や、他の大都市からの流入を招くこととなった。 1945年5月29日、目標から外された翌日に横浜大空襲が行われた。なお、この横浜大空襲は、第3回目標選定委員会で横浜が目標から外されたから行われたものでなく、横浜に対して通常空襲を行うために、原子爆弾の投下目標から外したものと思われる。 1945年6月1日、スティムソン陸軍長官を委員長とする政府の暫定委員会は、 原子爆弾は日本に対してできるだけ早期に使用すべきであり、 それは労働者の住宅に囲まれた軍需工場に対して使用すべきである。 その際、原子爆弾について何らの事前警告もしてはならない。 と決定した。なお原子爆弾投下の事前警告については、BBC(ニューデリー放送)やVOA(サイパン放送)で通告されていたという説もあるが、確認されていない。 この経過の中で、4つの目標都市のうち京都が次の理由から第一候補地とされていた。 人口100万を超す大都市であること。 日本の古都であること。 多数の避難民と罹災工業が流れ込みつつあったこと。 小さな軍需工場が多数存在していること。 原子爆弾の破壊力を正確に測定し得る十分な広さの市街地を持っていること。 しかし、フィリピン総督時代に京都を訪れたことのあるスティムソン陸軍長官の強い反対にあったことや、戦後、「アメリカと親しい日本」を創る上で、京都には千数百年の長い歴史があり、数多くの価値ある日本の文化財が点在、これらを破壊する可能性のある原子爆弾を京都に投下したならば、戦後、日本国民より大きな反感を買う懸念があるとの観点から、京都への原子爆弾投下は問題であるとされた。 1945年6月14日、京都市が除外され、目標が小倉市、広島市、新潟市となる。しかし京都への爆撃禁止命令は継続された。 1945年6月16日から終戦まで、通常兵器による空爆第三期となり、中小都市への焼夷弾爆撃が行われた。 1945年6月30日、アメリカ軍統合参謀本部がダグラス・マッカーサー陸軍大将、チェスター・ニミッツ海軍大将、ヘンリー・アーノルド陸軍大将宛に、原子爆弾投下目標に選ばれた都市に対する爆撃の禁止を指令。同様の指令はこれ以前から発せられており、ほぼ完全に守られていた。 新しい指令が統合参謀本部によって発せられない限り、貴官指揮下のいかなる部隊も、京都・広島・小倉・新潟を攻撃してはならない。 右の指令の件は、この指令を実行するのに必要な最小限の者たちだけの知識にとどめておくこと。 1945年7月3日、それでもなお、京都市が京都盆地に位置しているので原子爆弾の効果を確認するには最適として投下を強く求める将校、科学者も多く存在し、その巻き返し意見によって再び京都市が候補地となった。 1945年7月20日、パンプキン爆弾による模擬原子爆弾の投下訓練が開始された。 1945年7月21日、ワシントンのハリソン陸軍長官特別顧問(暫定委員会委員長代行)からポツダム会談に随行してドイツに滞在していたスティムソン陸軍長官に対して、京都を第一目標にすることの許可を求める電報があったが、スティムソンは直ちにそれを許可しない旨の返電をし、京都市の除外が決定した。 1945年7月24日、京都市の代わりに長崎市が、地形的に不適当な問題があるものの目標に加えられた。スティムソン陸軍長官の7月24日の日記には「もし(京都の)除外がなされなければ、かかる無茶な行為によって生ずるであろう残酷な事態のために、その地域において日本人を我々と和解させることが戦後長期間不可能となり、むしろロシア人に接近させることになるだろう(中略)満州でロシアの侵攻があった場合に、日本を合衆国に同調させることを妨げる手段となるであろう、と私は指摘した。」とあり、アメリカが戦後の国際社会における政治的優位性を保つ目的から、京都投下案に反対したことが窺える。トルーマン大統領のポツダム日記7月25日の項にも「目標は、水兵などの軍事物を目標とし、決して女性や子供をターゲットにする事が無いようにと、スティムソンに言った。たとえ日本人が野蛮であっても、共通の福祉を守る世界の指導者たるわれわれとしては、この恐るべき爆弾を、かつての首都にも新しい首都にも投下することはできない。その点で私とスティムソンは完全に一致している。目標は、軍事物に限られる。」とある。 1945年7月25日、マンハッタン計画の最高責任者グローヴスが作成した原爆投下指令書が発令される(しかし、それをトルーマンが承認した記録はない)。ここで「広島・小倉・新潟・長崎のいずれかの都市に8月3日ごろ以降の目視爆撃可能な天候の日に「特殊爆弾」を投下する」とされた。 1945年8月2日、第20航空軍司令部が「野戦命令第13号」を発令し、8月6日に原子爆弾による攻撃を行うことが決定した。攻撃の第1目標は「広島市中心部と工業地域」(照準点は相生橋付近)、予備の第2目標は「小倉造兵廠ならびに同市中心部」、予備の第3目標は「長崎市中心部」であった。 1945年8月6日、広島市にウラニウム型原子爆弾リトルボーイが投下された。 1945年8月8日、第20航空軍司令部が「野戦命令第17号」を発令し、8月9日に2回目の原子爆弾による攻撃を行うことが決定した。攻撃の第1目標は「小倉造兵廠および市街地」、予備の第2目標は「長崎市街地」(照準点は中島川下流域の常盤橋から賑橋付近)であった。 1945年8月9日、第1目標の小倉市上空が視界不良であったため、第2目標である長崎市にプルトニウム型原子爆弾ファットマンが投下された。小倉が視界不良であった理由には天候不良のほか、八幡大空襲で生じた煙によるなどの説がある。
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