原子爆弾投下任務
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「B-29 (航空機)」の記事における「原子爆弾投下任務」の解説
詳細は「原子爆弾投下」を参照 マンハッタン計画で原子爆弾の開発が進められていたことは極秘事項であり、アメリカ陸軍航空隊の責任者であるアーノルドがマンハッタン計画の責任者レズリー・グローヴス准将から計画を聞いたのは1943年7月のことだった。アメリカ軍は自軍の爆撃機に原子爆弾を搭載できる機体がなかったことから、当初はイギリス軍からアブロ ランカスターの供与を受けることも検討していたが、開発中のB-29に原子爆弾搭載機として白羽の矢が立ち、グローヴスはアーノルドに、この爆弾を搭載し爆撃実験できるような特別機を準備してほしいとの要請を行い、アーノルドは陸軍航空軍総司令部航空資材調達責任者であるオリバー・エコルズ(英語版) 少将にB-29を原子爆弾搭載可能の改造を行うよう命じた。この計画は、エコルズを含む数名で極秘裏に進められたが、B-29改造担当者はロスアラモス原子力研究所から2種類の形の原子爆弾を開発していると説明を受けると、その両方の爆弾を搭載可能な改造を行う必要性に迫られた。 機密保持のため、2種類の原子爆弾をその形状から、それぞれ「シンマン(やせっぽち)」と「ファットマン(でぶっちょ)」、改造計画を「シルバープレート」と隠語で名付けた。マンハッタン計画を知らない多数の技術者に対しては、シンマンとはルーズベルト、ファットマンはチャーチルのことで、この2名が極秘裏にアメリカ国内を旅行するために使用するプルマン式寝台車を輸送するための改造であり、ことの重大性から寝台車もシルバープレートという隠語で呼んでいると説明している。のちにシンマンは設計変更で「リトルボーイ(ちびっこ)」と呼ばれることになった。この改造計画は、B-29に新しい爆弾架、まきあげ器、操弾索、懸架装置、投下装置などを装着するものであったが、「カンザスの戦い」で最優先されていたB-29の量産よりもさらに優先事項とされ、B-29による日本本土空襲の開始される前の1944年2月28日には原子爆弾の投下訓練が開始されている。実験により判明した不具合の修正が進められ、エンジンは新型のR-3350-57サイクロンエンジンに換装されて、プロペラも冷却能力を高めるため、根元にルート・カフスを装着した逆ピッチも可能な電気式カーチス可変ピッチプロペラとする特別仕様となった。1944年8月にアーノルドはこのシルバープレート機を3機発注し、戦争が終わるまでに54機まで発注を増やし、うち46機が納品されていた。 原爆搭載機の製造と並行して、原爆投下のための特別の戦闘部隊の組織していた。指揮官にはポール・ティベッツ大佐が選ばれたが、ティベッツは1942年8月17日にアメリカ陸軍航空隊として初めてドイツ支配下のフランスルーアンを爆撃し、北アフリカ戦線ではティベッツが指揮するB-17が連合軍最高司令官ドワイト・D・アイゼンハワー大将の特別機に指定されて、北アフリカやジブラルタルにアイゼンハワーを何度も運ぶなど、実績、信頼度ともに非常に高かったが、向こう見ずな性格で上官にも臆せず意見し、また激情家であり、税金を不当に押収しにきた税関職員を拳銃で脅して追い返したこともあった。のちにティベッツは自分の身の潔白を自らの調査で証明し、逆にこの税関職員が密輸入品で不正に稼いでいたことも判明している。 ティベッツはヨーロッパ戦線から戻ると、1944年春からしばらくB-29搭乗員の訓練教官をしていたが、1944年9月にマンハッタン計画の弾道技術者ウィリアム・パーソンズ海軍大佐と面談し、1944年12月27日に15機の改造B-29を保有する原爆投下部隊である第509混成部隊の指揮官に任命された。この第509混成部隊は部隊単独で行動できるように、技術中隊、飛行資材中隊、兵員輸送中隊、憲兵中隊も組織され、総勢1,800名ものスタッフで構成されており、さながら私有空軍といった陣容であった。第509混成部隊はユタ州のウエンドーバー基地で訓練をしたが、もっとも大きな問題は原子爆弾を投下したB-29自身が、原子爆弾の衝撃波で吹き飛ばされてしまうのでは?ということであった。ティベッツは、約30,000フィート(9,140m)で原子爆弾を投下すれば、原子爆弾がさく裂するまでB-29は高度差も含めて6マイル(9.7km)離れられると計算したが、B-29を吹き飛ばすのに足りる威力の衝撃波は8マイル(13km)に達すると算出され、残りの2マイルをどう確保するかが問題となった。ティベッツは豊富な経験から、一般的に投下した爆弾は慣性で落下しつつ前方に移動するので、B-29が原子爆弾を投下したのち、155度の急旋回を行なってフルスロットルで飛行すれば、落下する原子爆弾とほぼ逆方向にB-29を退避させることができるため、原子爆弾のさく裂までに必要限度の8マイルは十分に確保できることに気が付いて、第509混成部隊の搭乗員らはこの急旋回の訓練を習性になるまで繰り返し行った。この時点で第509混成部隊のほとんどの搭乗員が、自分達が大型の特殊爆弾の投下任務に就くということは知っていたが、その特殊爆弾が恐るべき破壊力を持つ原子爆弾ということを知らなかった。 第509混成部隊は徹底した訓練ののち、シルバープレート機を15機を擁して(終戦時までに29機に増強)1945年5月にテニアン基地に進出した。日本軍はテニアン島に潜伏していた生存兵が尾翼のマークを確認して新しい飛行隊が進出してきたことを確認し、まだ日本軍が支配していたロタ島を通じて大本営に向けて報告された。特殊任務部隊との認識はあったが、原爆投下部隊とは知らなかった大本営は、日本軍の情報力を誇示するため、東京ローズにゼロアワーで第509混成部隊進出歓迎のことばを言わせたが、皮肉なことにこの部隊がのちに日本に大惨禍をもたらすことになった。第509混成部隊は形式上はルメイの指揮下となったが、第21爆撃集団は第509混成部隊に必要な支援を行うだけで、大部分の命令はアーノルドが直接おこなうこととしていた。 原子爆弾の投下目標都市については、爆撃による被害が少なく原子爆弾の威力を検証しやすい都市が選ばれ、広島、小倉、横浜(5月の大空襲により候補から除外)、京都などが候補にあがり、グローヴスは人口108万人の京都が原子爆弾の威力を測るのにもっとも相応しいと主張したが、陸軍長官のヘンリー・スティムソンが「京都は極東の文化史上重要で芸術品も数多い」という理由で候補から外させている。原子爆弾投下目標の選定が進む中で第509混成部隊は集中的な実地訓練を継続しており、原爆投下時は搭載機1機と効果を測定するため科学者や技術者を乗せた偵察機2機の3機編隊で飛行する計画となっており、2~6機の少数機で数度日本上空の高高度飛行訓練を行ったり、パンプキン爆弾と名付けられた原子爆弾を模した大型爆弾による精密爆撃訓練などを行った。1945年7月20日にはパンプキン爆弾投下訓練のため東京を飛行していたクロード・イーザリー少佐操縦のストレートフラッシュ号で、副航空機関士ジャック・ビヴァンスの提案により、攻撃が禁止されていた皇居にパンプキン爆弾を投下することとなった。しかし、皇居の上空には雲が立ち込めており、レーダー照準での爆撃となったので、パンプキン爆弾は皇居には命中しなかった。日本のラジオ放送で皇居爆撃の事実を知った爆撃団司令部によりイーザリーらは厳しく叱責されたが、原子爆弾投下任務から外されることはなかった。 1945年7月16日、トリニティ実験が成功したが、その知らせはルメイらごく一部の司令官、参謀にしか伝えられず、依然として第509混成部隊の搭乗員らも新型爆弾の正体を知らされていなかった。テニアン島に重巡洋艦インディアナポリスが「リトルボーイ」を運び込んだときも機密保持の状況に変更はなかった。1945年7月25日にグローヴスから原爆投下命令が発され、8月2日には第509混成部隊名で出された野戦命令第13号で8月6日に第1目標広島、第2目標小倉に原子爆弾を投下すると決定した。ルメイ自身はこの決定に直接関与はしなかったとのことだが、広島が選ばれた理由を「当時の日本では軍都のイメージが強い」であったからと推測している。 8月4日にティベッツは自らB-29を操縦して最後のパンプキン爆弾投下訓練を行ったが、出撃前に搭乗機に他の搭乗員と相談して、操縦士の窓のちょうど下のところにティベッツの母親(エノラ・ゲイ・ティベッツ(Enola Gay Tibbets))の名前である「エノラ・ゲイ」とノーズアートし、これがこの機体の愛称となった。ティベッツは前日の8月5日に明日の任務のことを搭乗員に説明したが、このときも原子爆弾のことについては一切触れず、出撃の数時間前になってようやくトリニティ実験の写真を搭乗員に見せている。エノラ・ゲイはティベッツが自ら操縦することとした。アメリカ陸軍航空隊では原則的に司令官自らの空中指揮を禁止しており、ルメイもその規則を守って1945年3月10日の東京大空襲での空中指揮を断念した経緯もあってティベッツに再考を促したが、ティベッツは最初から自ら空中指揮を執ると決めており、最終的にはルメイも同意している。 テニアン島には多数のマンハッタン計画のスタッフたちも出撃の状況を見守っていたが、離陸直後のB-29が墜落する様子をよく見ていたスタッフたちはエノラ・ゲイが離陸直後に墜落してテニアン島で原子爆弾がさく裂しないように、離陸に成功してのちに起爆装置を作動することとし弾道技術者のパーソンズをエノラ・ゲイに搭乗させて機上で作動操作を行わせることとした。リトル・ボーイを搭載しパーソンズを乗せたエノラ・ゲイはティベッツの操縦で午前2時45分にテニアン島から出撃した。その後に先行していた気象観測機ストレートフラッシュ号から第1目標の広島の天候は良好との知らせが入り、計画通り広島に初めての原子爆弾が投下されることになった。広島が悪天候のときも考慮して、第2の目標とされた小倉には「ジャビット三世」、第3の目標の長崎には「フル・ハウス」も天候観測のために飛行していた。 エノラ・ゲイは計画よりわずか17秒の超過だけで、午前9時15分17秒(日本の時間では8時15分17秒)にリトルボーイを投下し、ティベッツは何度となく訓練したように155度の右旋回を入れて急速離脱した。リトルボーイは投下後43秒でさく裂したが、エノラ・ゲイはティベッツの計算通り9マイル先に離脱しており無事であった。それでも衝撃波が激しく機体を震わせた。一瞬のうちに広島では、78,150人の市民が死亡し、70,147戸の家屋が半壊以上の損害を受けた。中国軍管区は豊後水道を北上するエノラ・ゲイ3機を発見し7時9分に警戒警報を発令していたが、うち1機のストレートフラッシュが一旦広島上空を通過して播磨灘方面に去ったので、7時31分に警報解除している。その後8時11分に松永対空監視所がエノラ・ゲイと観測機グレート・アーティスト号が高度9,500mで接近してくるのを発見したが、時すでに遅く充分な対応ができなかった。 原爆投下成功の知らせは、ポツダム会談からの帰国中のトルーマンにも報告され、トルーマンは「さらに迅速かつ完全に日本のどこの都市であろうが、地上にある生産施設を抹殺してしまう用意がある。我々は、彼らの造船所を、彼らの工場を、彼らの交通を破壊するであろう。誤解のないよう重ねていうが、我々は日本の戦力を完全に破壊するであろう」という談話を発表した。(詳細は広島市への原子爆弾投下参照) 広島の3日後が次の原子爆弾投下の日に選ばれた。短期間の間に2回も原子爆弾を投下するのは、日本側にいつでも原子爆弾を投下できるストックがあると知らしめることが目的であったが、実際は次に投下する予定のファットマンがアメリカ軍が製造していた最後の原子爆弾であった。初回の任務を成功させたティベッツは2回目は信頼できる部下に任せることとし、広島の際に観測機グレート・アーティストの機長であったチャールズ・スウィーニー中佐がB-29ボックスカー号に搭乗して原子爆弾投下任務を行うことになった。目標は小倉か新潟いづれかに絞られたが、新潟は距離が遠すぎるという理由で第1目標が小倉、そして第2目標を同じ九州の長崎と定めた。ただし長崎は丘と谷に隔てられた地形であり好目標ではなかった。1945年8月9日テニアン島を出撃したボックスカーは、午前8時43分に小倉上空に達したが、天候不良で小倉は厚い雲に覆われており、やむなく第2目標の長崎に向かった。長崎も天候は不良であったが、レーダーで爆撃進路をとっているときに一瞬雲の切れ目が見えたので、午前10時58分にファットマンを投下し、ボックスカーは燃料不足のためマリアナには戻らずそのまま沖縄に向けて飛行した。 日本軍も広島への原子爆弾投下以降警戒は強化しており、国東半島から北九州地区に向かう2機のB-29を発見したが、西部軍管区は広島と同様の編成であったのでこれを原子爆弾搭載機と判断し10時53分に空襲警報を発令した。第16方面軍司令部は、敵機の目標は長崎と判断しラジオを通じて「B-29少数機、長崎方面に侵入しつつあり。全員退避せよ」という放送を繰り返し流させたが、事前の空襲警報やラジオ放送はほとんどの長崎市民には認知されておらず(ラジオ放送そのものがなかったという証言もあり)長崎市民が大規模な避難をすることはなかった。ファットマンのさく裂で長崎でも一瞬のうちに23,752人もの市民の命が奪われた。(詳細は長崎市への原子爆弾投下参照) アメリカでは「これらの戦果により、日本の終戦を早め「本土決戦」(日本上陸戦・オリンピック作戦)という大きな被害が予想される戦いを避けることができた」自称している。この評価もあって1947年に陸軍航空隊は陸軍から独立してアメリカ空軍に改組された。原爆機の搭乗員は「ヒーロー」として戦後各地で公演を行い、広島市に原子爆弾を投下したエノラ・ゲイは、退役後、分解されて保存されていたが復元されスミソニアン博物館に展示されることとなった。また、ボックスカーは国立アメリカ空軍博物館に実機が保管されている。 長崎に原爆が投下されて6日後の1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾して戦争は終わった。終戦までにB-29は147,000トンの爆弾(うち100,000トンが焼夷弾)を投下し、日本の66都市の40%を焦土と化し、45万人が死亡して600万人が家を失った。また飢餓作戦で投下された12,000個の機雷で海上輸送も断絶しており、これ以上の抗戦は不可能なところまで追い込まれていた。戦後にB-29の戦略爆撃の効果を調査したアメリカ戦略爆撃調査団は「たとえ原爆が投下されなかったとしても、たとえソ連が参戦しなかったとしても、さらにまた、上陸作戦が企画されなかったとしても、日本は1945年末以前に必ず降伏しただろう」と結論づけているが、これはアメリカ戦略爆撃調査団による「内輪」のものであることに注意が必要で、実際アメリカ軍は本土決戦となった場合、終戦は1946年後半以降になったと予想している。 香淳皇后は、ポツダム宣言受諾の1945年8月15日から数日後、疎開先の皇太子(継宮明仁親王)に手紙を送っている。その中には「こちらは毎日 B-29や艦上爆撃機、戦闘機などが縦横むじんに大きな音をたてて 朝から晩まで飛びまはつています B-29は残念ながらりつぱです。お文庫の机で この手紙を書きながら頭をあげて外を見るだけで 何台 大きいのがとほつたかわかりません。」と書かれていた。 B-29の第二次世界大戦最後の任務は、日本の国内外154箇所の捕虜収容所に収容されている63,000人の連合軍捕虜に対する当面の間の食料や薬品といった物資の空中投下となった。8月27日の北京近郊の捕虜収容所を皮切りに、東京都や愛知県、長崎県、佐賀県など、収容所を解放するまでの約1か月間で延べ900機が出動したが、長崎俘虜収容所で物資を投下したB-29がその後に近くの山腹に激突して搭乗員全員が死亡したように、この任務中にも数機のB-29が墜落している。 B-29の主翼の下側に「捕虜供給物資」とペイントされ、物資を投下する1時間ほど前に、物資の分量や、食べ過ぎや薬品の飲みすぎ注意するようにと但し書きが書いているチラシを散布するほどの気の配りようであった。物資のいくつかはパラシュートが外れて、まるで爆弾のように落下し、建物を破壊したり、時には地上で物資を待ちかねていた捕虜に直撃して命を奪うこともあった。
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