カンザスの戦い
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「B-29 (航空機)」の記事における「カンザスの戦い」の解説
ケベック会談のあとの1943年11月、アーノルドはB-29による日本本土爆撃のための専門部隊となる第20爆撃集団を編成し、司令官は「ケネス・B・ウルフ特別プロジェクト」の責任者ウルフが任命された。ウルフが育成してきた最精鋭の搭乗員は第58爆撃団、第73爆撃団 として編成され第20爆撃集団に配属された。各爆撃団はB-29の28機を1群とする爆撃機群4群で編成する計画であった。1943年11月4日、アーノルドはUP通信の取材に対して「有力なる武装を持ち、高高度飛行用に建造された新大型爆撃機は、遠からず対日空襲に乗り出すべく準備されるであろう」と答え日本側を威嚇している。 しかし、計画は遅々として進んでおらず、インドと中華民国の飛行場建築はようやく1944年1月から開始されたが、中華民国には建設用の機械はなく、先乗りした第20爆撃集団の搭乗員と数千人の中国人労働者が人力で滑走路上の岩を取り除き、敷き詰める石を割って、数百人が引く巨大な石のローラーで地面ならすといった人力頼みの作業であった。インドでも6,000人のアメリカ軍建設部隊とそれ以上のインド人労働者が投入されたが、悪天候も重なり工事はなかなか捗らず、1944年4月までにどうにか2か所の基地を完成させるのが精いっぱいであった。 飛行場建設よりも遥かに進んでいなかったのがB-29の製造であり、1944年の1月中旬までに97機が完成していたが、そのうち飛行可能なのはわずか16機という惨状であった。1944年2月に自らジョージア州マリエッタのB-29工場で状況を確認したアーノルドは、技術者を追加派遣するなどの対策を講じた。その後、第20爆撃集団のウルフを3月10日にインドに派遣することとしていたアーノルドは、3月8日にベネット・E・マイヤーズ参謀長を連れて第20爆撃集団が出発するカンザス基地を訪れたが、3月10日に発進できるB-29が1機もないとの報告を受けて愕然とした。アーノルドは航空技術勤務部隊司令部に飛び込むと「一体、どうなっているんだ、誰がこれを監督しているんだ」「誰もやらんのなら、俺がやる」と激高して詰り「翌朝までに、不足なものの全部のリストをつくれ! 工場にそれがあるのか、いつそれが渡されるのか」と怒号で指示した。アーノルドはのちにこのときを「実情を知って、私はゾッとした」「どの機も飛べる状態になかった。非常手段をとらなければ中国への進出は不可能だった」と振り返っている。 アーノルドは強権を行使してその非常手段を実行した。まずは参謀長のマイヤーズを現場指揮官に任命して製造指揮の統一化をはかった。マイヤーズは陸軍航空用の各種部品の製造や調達に詳しく、調整にはうってつけの人物であった。マイヤーズは早速自ら航空部品製造各社と直接交渉してB-29の部品の調達に辣腕を振るった。航空部品などのメーカーは、不足している備品や部品類を納入するまでは、他の一切のものを中止するように命令されるという徹底ぶりであった。これら集められた部品は荒れ狂う吹雪の中、露天の飛行場に並べられたB-29に昼夜を問わず取り付けられた。あまりの労働環境の劣悪さに作業員がストライキを起こす寸前であったが、マイヤーズが労働者の愛国心にうったえてなんとか収まるという一幕もあった。このB-29の集中製造作戦は『カンザスの戦い』と呼ばれることとなり、3月下旬に、最初のB-29が完成し、インドにむけて出発すると、その後もB-29は続々と完成し、4月15日にはインドに向かったB-29は150機となった。 完成したB-29はアメリカを発つと、ドイツ軍にはB-29がドイツ攻撃用と思い込ませる一方、日本軍にはインドに送る計画を秘匿するため、わざわざいったんイギリスを経由してインドまで飛行することとした。1944年4月15日に、そのB-29をドイツ空軍偵察機が発見、アメリカ軍の目論見通り、高性能で迎撃が極めて困難な新型爆撃機B-29を見たドイツ空軍は狼狽し、高々度戦闘機の導入や更に革新的なジェット戦闘機Ta183の新規開発を急がせることとなるなど、アメリカ側の陽動作戦にまんまとはまってしまった。
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