太平洋戦争中までとは? わかりやすく解説

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太平洋戦争中まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 06:21 UTC 版)

細川嘉六」の記事における「太平洋戦争中まで」の解説

東京帝大卒業後、小野塚の紹介住友総本店に入るも、1年退職した。この理由について、細川後年当時の社会運動の高まりの中で「財界奉公して人民大衆ためになるものでない」と考えたことと、元来言論界志望していたことを述べている。 翌1919年読売新聞社入社。これは住友総理事の鈴木馬左也が、兄である秋月左都夫社長務めていた読売新聞社紹介したことによる。ところが同年6月読売新聞社身売り秋月社長退任)したことで、細川退職余儀なくされた。ただちに東京帝大経済学部教授高野岩三郎推薦同学助手となり、高野主宰する同人会」にも参加した。だが、5か月後の1920年1月森戸事件起き細川は他の「同人会」会員とともにこれに抗議して東京帝大退職する細川は、高野所長務め大原社会問題研究所当時大阪市にあった)に入所、ようやく落ち着いて学究活動取り組めようになった大原社研では1925年から1926年にかけてドイツ・フランス・イギリス・ソ連に留学し大きな影響を受ける。ソ連モスクワでは片山潜面会10日間の滞在中は毎日話をした。この時片山1918年米騒動研究大原社研取り組むことを薦め細川承諾する帰国後に研究所呼びかけ米騒動資料収集研究始め研究所外の布施辰治らの協力得て1932年から1933年にかけて機関誌大原社会問題研究雑誌』に「大正七年米騒動資料」として発表した対象富山県和歌山県)。雑誌掲載されたのは収集した資料一部だったが、後述警察による検挙等もあり、残り細川自身の手分析発表することはできなかった。資料そのもの保存され1954年京都大学人文科学研究所委託され山辺健太郎整理したのち、井上清渡部徹共編による『米騒動研究』(有斐閣1955年 - 1962年)のベースとなった細川ウラジーミル・レーニンの『帝国主義論』に関心示し1924年にはレーニン義和団事件題材執筆した評論中国戦争」を「支那侵略」のタイトル翻訳した。また1927年には大阪朝日新聞記者だった尾崎秀実と「中国問題研究会」を発足させた。この時期には労働農民党支援し1928年実施され最初普通選挙第16回衆議院議員総選挙)では、香川県から立候補した大山郁夫応援弁士務めたその後労働者農民党結成大会参加している。 1933年3月、「共産党シンパ事件」(日本共産党420円の資金提供をしたというもの)による治安維持法違反容疑警察検挙され4月大阪地方裁判所起訴1934年懲役2年執行猶予4年判決を受ける。これに伴い1933年4月から1935年1月まで大原社研休職した。 1937年大原社研組織改編大原孫三郎個人出資から独立法人に)に伴って研究所退所評議員になるとともに東京市世田谷区転居した。上京後知遇のあった立憲民政党衆議院議員だった風見章昭和研究会内に「支那問題研究会」を発足させる際に風見推薦受けて昭和研究会メンバーとなる。さらに、風見資金拠出する形で「支那研究室」(支那研究所、とも)が設立され細川犬養健責任者)、尾崎秀実堀江邑一松本慎一西園寺公一とともに加わった1939年風見依頼長期化した日中戦争対す国民世論調べるため、北海道から九州まで足を向ける結果をまとめ、国民厭戦気分高まっていることを風見西園寺牛場友彦とともに近衛文麿細川証言では第2次近衛内閣発足の頃)に報告してすみやかな撤兵による戦争終結進言したが、近衛関心を示さなかったという。これに前後して1940年4月には南満州鉄道満鉄東京支社嘱託になっている。しかし、支那研究室1941年ゾルゲ事件尾崎逮捕されたことにより解散となった細川帝国主義資本主義分析一環として日本植民地研究取り組み1940年に『アジア民族政策論』、1941年に『植民史』(現代日本文明史第10巻)を、いずれも東洋経済新報社から刊行した当時言論思想対す弾圧避け表現用いられていたが、これらを含めた細川植民地研究は、戦後には浅田喬二らから日本植民地政策対す痛烈な批判であるという評価受けている。『植民史』で印税500円得た細川は、1942年7月郷里の泊に親し編集者研究者招いて1泊2日懇親会催した2日目の朝、宿泊先旅館中庭で、参加者による記念写真撮影され、これが後に弾圧事件使われる。 この直後雑誌改造1942年8月号と9月号に掲載され論文世界史動向日本に対して9月14日陸軍報道部長谷萩那華雄当時大佐)が「共産主義宣伝」と非難する内容日本読書新聞掲載され、さらに右翼系のやまと新聞がそれを煽る報道繰り返した記事載せた改造』の各号後追い発禁処分となる。論文の内容は、日本勢力下に置いたアジア諸国に対して民主主義に基づく民族自決尊重すべきというもので、共産主義とは関係がなかった。しかし、谷による非難記事発表同日細川治安維持法違反容疑警視庁検挙された。 細川検挙3日前に神奈川県警察部特高課が川田寿とその妻を「アメリカ共産党指令持ち帰った」という虚偽容疑逮捕し、そこから川田肉親関係者検挙広がった川田勤務先だった世界経済調査会メンバー高橋善雄が満鉄東京支社調査室メンバーと「ソ連事情調査会」を結成していたことから、満鉄調査室にも容疑かけられる満鉄調査室関係者に、細川が泊に招いた西沢富夫平館利雄がおり、1943年5月逮捕され西沢家宅捜索見つかった泊の懇親会記念写真が「共産党再建準備会」の写真決めつけられた。これにより、細川はその謀議メンバーとされ、細川招いた他の関係者とそれにつながるとされた人物からも多く逮捕者出た。これが横浜事件呼ばれる言論弾圧事件である。 細川最初論文事件世田谷警察署拘留された後、その裁判のために1943年9月東京拘置所移され1944年5月から東京地方裁判所での予審臨んだが、2回目終了したところで(他の横浜事件関係者収容されていた)横浜刑務所未決監再度移された(裁判横浜地方裁判所に移る)。弁護務めたのは海野晋吉三輪寿壮だった。拘留されたまま終戦迎えると、不当な拘禁弾圧に対して徹底して抗議する姿勢示した。他の被告には9月執行猶予つきの有罪判決下されたが、細川容疑認めないまま同月保釈され10月治安維持法廃止されたため、細川裁判11月免訴終結した横浜事件被害者は「笹下会」という組織結成し1947年4月27日会員33名が共同神奈川県警察部特高警察28人を特別公務員暴行傷害罪として横浜地裁告訴1952年最高裁判所で3人に実刑判決確定したが、サンフランシスコ講和条約発効に伴う大赦令により被告釈放され、刑に服することはなかった。

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太平洋戦争中まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 08:04 UTC 版)

石井花子」の記事における「太平洋戦争中まで」の解説

岡山県倉敷市生まれる。父は醸造業を営む資産家だったが、石井の母は正妻ではなく、夫を亡くした後に子女男女二人の子がいた)の養育頼って庇護受けたという事であった(ただし、石井によると父は継子養育にはほとんど金を出さなかったという)。高等女学校3年中退。これは、母の影響で父が天理教宣教師となり、教会建てる目的それまで一家(父とは別の家をあてがわれていた)の暮らしていた家屋売却しためだった。兄の勧めにより、岡山医科大学附属看護婦養成所進み卒業後は義務となる1年間医院勤務ののち、倉敷で姉と喫茶店経営したが約1年廃業岡山市働いた。この時期戸籍上の親を実母変更養女扱い)し、母の姓である「三宅」を名乗った1933年上京しダンスホール酒場移りながら働く。1935年銀座にあったドイツ人ヘルムート・ケテル経営酒場ラインゴールド」でウエイトレスをしている時にゾルゲ知り合う石井記述では、初めゾルゲ会ったのはその誕生日である10月4日だった。以降ゾルゲ交際する1936年夏、初めゾルゲ自宅招かれ、このときは押し倒されても抵抗して帰宅したが、しばらくして2度目訪問したときに受け入れた1937年5月で「ラインゴールド」を辞め同年1月倉敷から呼び寄せた母や姪(それまで石井住んでいたアパート近くに家を借りて住んだとともにゾルゲ支援生活するうになる以降1941年ゾルゲ逮捕されるまで、石井ゾルゲ日本人妻として過ごしたゾルゲ石井交際当初は店の源氏名である「アグネス」と呼んでいたが、後には「みや子」と呼んだこの間石井ゾルゲ情報収集はその仕事新聞記者)の一環であると考えていた。ゾルゲ仲間のうち、マックス・クラウゼンはしばし石井滞在時にゾルゲ宅を訪れたが、ブランコ・ド・ヴーケリッチ1939年頃2、3見ただけでゾルゲからも紹介されなかったという。また、石井ゾルゲとの結婚子供を望む意思伝えても、ゾルゲ同意しなかった。ゾルゲ石井日本人男性と寄り添うべきだと考えゾルゲ知り合いがいいと答えた石井尾崎秀実薦めた既婚者知って取り下げ)こともあった。 1941年夏に麻布鳥居坂警察署(現在は麻布警察署統合)からゾルゲとの関係について厳しく聴取受けた。それを知ったゾルゲ初めて自らの任務明かしたという。石井著書記述では、その表現は「自分生きれば戦争起きるが、自分働いて死ねば日本国民幸せになる」「自分日本政府早く負けるようにした」といったものであった同年10月4日ゾルゲ誕生日銀座ドイツ料理店「ローマイヤ」で会食したのが最後面会だった。このとき、ゾルゲ日米開戦可能性とその帰趨日本アメリカには勝つことはない)を語り、店を出た後は警察監視があるという理由石井を母の自宅帰るよう促して大丈夫な電報で呼ぶと告げた)、石井もそれに従った2週間後の10月18日ゾルゲゾルゲ事件容疑者として逮捕される石井は、聴取受けた麻布鳥居坂警察署特高主任からゾルゲ逮捕スパイであったことを伝えられたが、それ以上消息知らされないまま、1942年5月ゾルゲ事件報道公表される1943年8月には石井淀橋警察署留置され取り調べを受ける(麻布鳥居坂警察署特高主任への取り次ぎ依頼して釈放された)。死刑判決受けたゾルゲ1944年11月7日巣鴨拘置所処刑されその事実は報道されなかったため当時石井は知ることがなかった。1944年に母が死去すると、再び父の戸籍戻り石井になったゾルゲにはソ連本国正式に結婚した妻がいた(1943年死去その事実はゾルゲ伝えられなかった)。ほかにも複数愛人存在したことが戦後判明している。ゾルゲ日本滞在中、家政婦には一度結婚したとがない話し石井も(正式な結婚をしていないという意味で)独身であると考えていた。

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