太平洋戦争中まで
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東京帝大卒業後、小野塚の紹介で住友総本店に入るも、1年で退職した。この理由について、細川は後年、当時の社会運動の高まりの中で「財界に奉公しても人民大衆のためになるものでない」と考えたことと、元来言論界を志望していたことを述べている。 翌1919年に読売新聞社に入社。これは住友総理事の鈴木馬左也が、兄である秋月左都夫が社長を務めていた読売新聞社を紹介したことによる。ところが同年6月に読売新聞社が身売り(秋月は社長を退任)したことで、細川は退職を余儀なくされた。ただちに東京帝大経済学部教授の高野岩三郎の推薦で同学部助手となり、高野が主宰する「同人会」にも参加した。だが、5か月後の1920年1月に森戸事件が起き、細川は他の「同人会」会員とともにこれに抗議して東京帝大を退職する。細川は、高野が所長を務める大原社会問題研究所(当時は大阪市にあった)に入所、ようやく落ち着いて学究活動に取り組めるようになった。 大原社研では1925年から1926年にかけてドイツ・フランス・イギリス・ソ連に留学し、大きな影響を受ける。ソ連のモスクワでは片山潜と面会、10日間の滞在中は毎日話をした。この時片山は1918年米騒動の研究に大原社研で取り組むことを薦め、細川も承諾する。帰国後に研究所に呼びかけて米騒動の資料収集と研究を始め、研究所外の布施辰治らの協力も得て、1932年から1933年にかけて機関誌『大原社会問題研究雑誌』に「大正七年米騒動資料」として発表した(対象は富山県と和歌山県)。雑誌に掲載されたのは収集した資料の一部だったが、後述の警察による検挙等もあり、残りを細川自身の手で分析発表することはできなかった。資料そのものは保存され、1954年京都大学人文科学研究所に委託されて山辺健太郎が整理したのち、井上清と渡部徹共編による『米騒動の研究』(有斐閣、1955年 - 1962年)のベースとなった。 細川はウラジーミル・レーニンの『帝国主義論』に関心を示し、1924年にはレーニンが義和団事件を題材に執筆した評論「中国戦争」を「支那侵略」のタイトルで翻訳した。また1927年には大阪朝日新聞記者だった尾崎秀実と「中国問題研究会」を発足させた。この時期には労働農民党を支援し、1928年に実施された最初の普通選挙(第16回衆議院議員総選挙)では、香川県から立候補した大山郁夫の応援弁士を務めた。その後労働者農民党結成大会に参加している。 1933年3月、「共産党シンパ事件」(日本共産党に420円の資金提供をしたというもの)による治安維持法違反容疑で警察に検挙され、4月に大阪地方裁判所で起訴、1934年に懲役2年執行猶予4年の判決を受ける。これに伴い、1933年4月から1935年1月まで大原社研を休職した。 1937年に大原社研の組織改編(大原孫三郎の個人出資から独立法人に)に伴って研究所を退所し評議員になるとともに、東京市世田谷区に転居した。上京後、知遇のあった立憲民政党の衆議院議員だった風見章が昭和研究会内に「支那問題研究会」を発足させる際に風見の推薦を受けて昭和研究会のメンバーとなる。さらに、風見が資金を拠出する形で「支那研究室」(支那研究所、とも)が設立され、細川は犬養健(責任者)、尾崎秀実、堀江邑一、松本慎一、西園寺公一らとともに加わった。1939年、風見の依頼で長期化した日中戦争に対する国民世論を調べるため、北海道から九州まで足を向ける。結果をまとめ、国民に厭戦気分が高まっていることを風見や西園寺、牛場友彦とともに近衛文麿(細川の証言では第2次近衛内閣発足の頃)に報告してすみやかな撤兵による戦争終結を進言したが、近衛は関心を示さなかったという。これに前後して、1940年4月には南満州鉄道(満鉄)東京支社嘱託になっている。しかし、支那研究室は1941年のゾルゲ事件で尾崎が逮捕されたことにより解散となった。 細川は帝国主義・資本主義分析の一環として日本の植民地研究に取り組み、1940年に『アジア民族政策論』、1941年に『植民史』(現代日本文明史第10巻)を、いずれも東洋経済新報社から刊行した。当時の言論・思想に対する弾圧を避ける表現が用いられていたが、これらを含めた細川の植民地研究は、戦後には浅田喬二らから日本の植民地政策に対する痛烈な批判であるという評価を受けている。『植民史』で印税500円を得た細川は、1942年7月、郷里の泊に親しい編集者や研究者を招いて1泊2日の懇親会を催した。2日目の朝、宿泊先の旅館の中庭で、参加者による記念写真が撮影され、これが後に弾圧事件に使われる。 この直後、雑誌『改造』1942年8月号と9月号に掲載された論文「世界史の動向と日本」に対して、9月14日に陸軍報道部長の谷萩那華雄(当時は大佐)が「共産主義宣伝」と非難する内容が日本読書新聞に掲載され、さらに右翼系のやまと新聞がそれを煽る報道を繰り返した。記事を載せた『改造』の各号は後追いで発禁処分となる。論文の内容は、日本が勢力下に置いたアジア諸国に対して民主主義に基づく民族自決を尊重すべきというもので、共産主義とは関係がなかった。しかし、谷萩による非難記事発表と同日に細川は治安維持法違反容疑で警視庁に検挙された。 細川検挙の3日前に、神奈川県警察部特高課が川田寿とその妻を「アメリカ共産党の指令を持ち帰った」という虚偽の容疑で逮捕し、そこから川田の肉親や関係者に検挙が広がった。川田の勤務先だった世界経済調査会メンバーの高橋善雄が満鉄東京支社調査室メンバーと「ソ連事情調査会」を結成していたことから、満鉄調査室にも容疑がかけられる。満鉄調査室関係者に、細川が泊に招いた西沢富夫と平館利雄がおり、1943年5月に逮捕された西沢の家宅捜索で見つかった泊の懇親会記念写真が「共産党再建準備会」の写真と決めつけられた。これにより、細川はその謀議のメンバーとされ、細川が招いた他の関係者とそれにつながるとされた人物からも多くの逮捕者が出た。これが横浜事件と呼ばれる言論弾圧事件である。 細川は最初の論文事件で世田谷警察署に拘留された後、その裁判のために1943年9月に東京拘置所に移されて1944年5月から東京地方裁判所での予審に臨んだが、2回目を終了したところで(他の横浜事件関係者が収容されていた)横浜刑務所の未決監に再度移された(裁判も横浜地方裁判所に移る)。弁護を務めたのは海野晋吉と三輪寿壮だった。拘留されたまま終戦を迎えると、不当な拘禁・弾圧に対して徹底して抗議する姿勢を示した。他の被告には9月に執行猶予つきの有罪判決が下されたが、細川は容疑を認めないまま同月保釈され、10月に治安維持法が廃止されたため、細川の裁判は11月に免訴で終結した。 横浜事件の被害者は「笹下会」という組織を結成し、1947年4月27日に会員33名が共同で神奈川県警察部特高警察官28人を特別公務員暴行傷害罪として横浜地裁に告訴、1952年に最高裁判所で3人に実刑判決が確定したが、サンフランシスコ講和条約発効に伴う大赦令により被告は釈放され、刑に服することはなかった。
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太平洋戦争中まで
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岡山県倉敷市に生まれる。父は醸造業を営む資産家だったが、石井の母は正妻ではなく、夫を亡くした後に子女(男女二人の子がいた)の養育を頼って庇護を受けたという事情であった(ただし、石井によると父は継子の養育にはほとんど金を出さなかったという)。高等女学校を3年で中退。これは、母の影響で父が天理教の宣教師となり、教会を建てる目的でそれまで一家(父とは別の家をあてがわれていた)の暮らしていた家屋を売却したためだった。兄の勧めにより、岡山医科大学附属の看護婦養成所に進み、卒業後は義務となる1年間の医院勤務ののち、倉敷で姉と喫茶店を経営したが約1年で廃業、岡山市で働いた。この時期、戸籍上の親を実母に変更(養女の扱い)し、母の姓である「三宅」を名乗った。 1933年に上京し、ダンスホールや酒場を移りながら働く。1935年、銀座にあったドイツ人ヘルムート・ケテル経営の酒場「ラインゴールド」でウエイトレスをしている時にゾルゲと知り合う。石井の記述では、初めてゾルゲに会ったのはその誕生日である10月4日だった。以降、ゾルゲと交際する。1936年夏、初めてゾルゲの自宅に招かれ、このときは押し倒されても抵抗して帰宅したが、しばらくして2度目に訪問したときに受け入れた。1937年5月で「ラインゴールド」を辞め、同年1月に倉敷から呼び寄せた母や姪(それまで石井が住んでいたアパートの近くに家を借りて住んだ)とともに、ゾルゲの支援で生活するようになる。以降1941年にゾルゲが逮捕されるまで、石井はゾルゲの日本人妻として過ごした。ゾルゲは石井を交際当初は店の源氏名である「アグネス」と呼んでいたが、後には「みや子」と呼んだ。 この間、石井はゾルゲの情報収集はその仕事(新聞記者)の一環であると考えていた。ゾルゲの仲間のうち、マックス・クラウゼンはしばしば石井の滞在時にもゾルゲ宅を訪れたが、ブランコ・ド・ヴーケリッチは1939年頃に2、3度見ただけでゾルゲからも紹介されなかったという。また、石井がゾルゲとの結婚や子供を望む意思を伝えても、ゾルゲは同意しなかった。ゾルゲは石井が日本人の男性と寄り添うべきだと考え、ゾルゲの知り合いがいいと答えた石井に尾崎秀実を薦めた(既婚者と知って取り下げ)こともあった。 1941年夏に麻布鳥居坂警察署(現在は麻布警察署に統合)からゾルゲとの関係について厳しく聴取を受けた。それを知ったゾルゲは初めて自らの任務を明かしたという。石井の著書の記述では、その表現は「自分が生きれば戦争が起きるが、自分が働いて死ねば、日本国民は幸せになる」「自分は日本政府が早く負けるようにした」といったものであった。 同年10月4日のゾルゲの誕生日に銀座のドイツ料理店「ローマイヤ」で会食したのが最後の面会だった。このとき、ゾルゲは日米開戦の可能性とその帰趨(日本はアメリカには勝つことはない)を語り、店を出た後は警察の監視があるという理由で石井を母の自宅に帰るよう促して(大丈夫なら電報で呼ぶと告げた)、石井もそれに従った。2週間後の10月18日にゾルゲはゾルゲ事件の容疑者として逮捕される。石井は、聴取を受けた麻布鳥居坂警察署の特高主任からゾルゲの逮捕とスパイであったことを伝えられたが、それ以上の消息を知らされないまま、1942年5月にゾルゲ事件の報道が公表される。1943年8月には石井も淀橋警察署に留置されて取り調べを受ける(麻布鳥居坂警察署の特高主任への取り次ぎを依頼して釈放された)。死刑判決を受けたゾルゲは1944年11月7日に巣鴨拘置所で処刑され、その事実は報道されなかったため当時石井は知ることがなかった。1944年に母が死去すると、再び父の戸籍に戻り、石井姓になった。 ゾルゲにはソ連本国に正式に結婚した妻がいた(1943年死去。その事実はゾルゲに伝えられなかった)。ほかにも複数の愛人が存在したことが戦後に判明している。ゾルゲは日本滞在中、家政婦には一度も結婚したことがないと話し、石井も(正式な結婚をしていないという意味で)独身であると考えていた。
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