江戸四宿の一つ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 06:45 UTC 版)
江戸時代には武蔵国豊島郡下板橋村の一部で、東海道の品川宿、甲州街道の内藤新宿、奥州街道・日光街道の千住宿とならび、江戸四宿の一つとして栄えた。江戸の境界にあたり、江戸後期には上宿の入り口にある大木戸より内側をもって「江戸御府内」「朱引き」、すなわち、「江戸」として扱われていた。 板橋宿はそれぞれに名主が置かれた3つの宿場の総称であり、上方側(京側、北の方)から上宿(かみ-しゅく。現在の本町)、仲宿(なか-しゅく、なか-じゅく、中宿とも。現在の仲宿)、平尾宿(ひらお-しゅく。下宿〈しも-しゅく〉とも称。現在の板橋)があった。上宿と仲宿の境目は地名の由来となった「板橋」が架かる石神井川であり、仲宿と平尾宿の境目は観明寺付近にあった。 道中奉行による天保12- 15年(1841- 1844年)の調べ(『中山道宿村大概帳』)によると、宿往還の長さは20町9間(約2.2km)、うち町並地は長さ15町49間(約1.7km)であり、南北に広がる。宿内人口は2,448人(うち、男1,053人、女1,395人)、宿内家数は573軒であった。うち、本陣は仲宿に1軒、脇本陣は各宿に1軒ずつ計3軒が設けられ、旅籠(はたご)は総計54軒であった。板橋宿の中心的存在であった仲宿には、問屋場、貫目改所、馬継ぎ場、番屋(自身番の詰め所)があった。また、上宿には木賃宿(商人宿)や馬喰宿が建ち並んでいた。 江戸時代には日本橋が各主要街道の形式上の起点ではあったが、実際の旅の起点・終点としては、江戸四宿と呼ばれる品川宿、千住宿、内藤新宿、そして、板橋宿が機能していた。これらの宿場には茶屋や酒楼はもちろん飯盛旅籠(めしもり-はたご)も多くあり、旅人のみならず見送り人や飯盛女(宿場女郎)目当ての客なども取り込んでたいそうな賑わいを見せた。規模は同じ天保15年頃の宿内人口と家数を比較して大きいほうから、千住宿(9,556人、2,370軒)、品川宿(7,000人、1,600軒)、内藤新宿(2,377人、698軒余)、板橋宿(2,448人、573軒)と、板橋宿は四宿の中では最下位ながら、その繁栄ぶりは中山道中有数であった。なお、板橋宿は150人もの飯盛女を置くことが認められており、日本橋寄りの平尾宿には飯盛旅籠が軒を連ねていた。幕末の戊辰戦争の際、中山道から江戸攻撃に進軍中であった官軍は、天璋院からの書状によりここで停止した。宿場町として終焉を迎えたのは明治時代。その頃になると中山道の重要性の低減に連れて徐々に寂れてゆき、板橋遊廓へと変貌していった。遊廓としての賑わいは昭和中期の太平洋戦争中まで続いた。遊廓として使われていた『新藤楼』の玄関部分は現在、板橋区立郷土資料館に移築されて保存されている。
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