江戸型山車のその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/04 00:01 UTC 版)
江戸時代においては山王祭・神田祭で盛んに引き回され、「祭の花」ともいわれた江戸型山車であったが、明治以降過酷な運命をたどることになる。 そもそも山車を引き回すことは多額の費用がかかり、山車だけ造ればよいというものではない。江戸では山車を曳くのは牛と決まっており、その牛を雇うのに費用が要る。また山車を組み立てその山車を置く山車小屋を建て、引き回すときにはその警護にもあたる鳶職への手間賃、さらにほかに山車練り物に付き従う町役人等の衣服なども用意しなければならない。また山車が傷んだら修理もせねばならず、全体に傷みが激しい場合は全て作り直しということにもなるが、火事によって山車を失うことも度々あった。当時鉾台型の山車1本造るのにおよそ400両から500両ほどの費用が掛ったという。そして付祭(つけまつり)という山車以外の練り物もあり、祭礼には山車練り物以外にも出費がある。これら全てを各町の中でまかなわければならなかった。江戸では「三厄」といって町役人がつねに頭を悩ませる問題が三つあり、ひとつは水道の維持管理、二つには火事、そして三つにはこの祭礼の費用を捻出することであった。 幕末から明治となり、江戸が東京に変わって人々の暮しが落ち着きを取り戻すと、山王祭と神田祭も江戸の昔に変わらぬ賑わいを見せていたかに思われたが、東京の各市街に電線の敷設が行なわれるようになると、それよりも背の高い江戸型山車は電線に阻まれて道を通りづらくなった。これにより各町では次第に山車の曳行をとりやめ、山車の人形だけを各町のお神酒所に飾るようになっていった。しかし電線などの問題もあったことは間違いないが、それよりも上で述べたような山車をめぐる少なからぬ諸費用について、各氏子町が頭を悩ませ、もてあましたことのほうが大きかったのではないかといわれる。それでも何かの祝典の折などにはいくつかの山車が引き出されることもあったが、関東大震災や戦災により、山王・神田の山車に関わるもののほとんどは東京から消滅し、ごく一部の例外を除いてはその後再び造られることはなかったのである。
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