江戸城・二の丸御殿の炎上
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 12:14 UTC 版)
「鳥羽・伏見の戦い」の記事における「江戸城・二の丸御殿の炎上」の解説
23日、江戸城の二の丸が火事になった。これは放火だとすると噂が広まり、二の丸御殿は天璋院の住まいだったため、大奥の女中が薩摩藩士と共謀して犯行したに違いないとか、同藩士が天璋院を誘拐しようと攪乱行為を働いているせいだとか、嫌疑が薩摩のみへ一気に集まった。『徳川慶喜公伝』が引用するところ、『史談会速記録』「落合直亮談話」の中で、旧薩摩藩士・市来四郎が、江戸城二の丸放火は同藩陪臣(倍々臣)伊牟田尚平のせい、としているとする。もろもろの役人(公務員)もあちこちで起きてきているあまたの暴行は薩摩浪人の所業だとついに探知するにいたった。役人らは大いに心を戒めると城門の警備を厳格にしだし、歩兵・騎兵・砲兵の3兵隊を曲輪内に集め非常時だと知らせながら、幕府陸軍へ命じて新橋、喰違、水道橋、昌平橋、和泉橋、下谷新橋を守らせ、往来を禁止した。また、永代橋、大橋、両国橋、東橋、一石橋、日本橋、江戸橋、鐙之渡、湊橋、豊後橋を諸大名の分担で守らせた。これらの戒厳令の敢行は、各警備隊がいづれも浪人を監視するためのものだったが、ひとりも浪人を逮捕したり処刑したりする成果は挙げられなかった。
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