江戸地廻り経済の活性化と技術成長
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「松平定信」の記事における「江戸地廻り経済の活性化と技術成長」の解説
松平定信は、経済政策として「江戸地廻り経済」(関東経済圏)の活性化と技術成長を促す事で「上方一強」の打破を目指した。 寛政年間、松平定信は「西国ヨリ江戸ヘ入リクル酒イカホドトモ知レズ、コレガタメニ金銀東ヨリ西ヘ移ルモノイカホドト云ウコトヲ知ラズ(江戸の民衆の酒代でどんどん関西にお金が流れてしまっている)」と嘆き、江戸の金が上方に流れるのを少しでも阻止しようとしたとされる。その為に、江戸近郊で作った地廻りの酒を普及させようと、希望者に資金を貸し付けたり、上方の酒の入津制限を行なうなどの政策をとった。 また、酒に限らず江戸の商品需要をかように上方からの下りものに頼ると、輸送費がかかる分だけ江戸では消費者物価が高くなり、大量の金銀が江戸から流出することにも繋がる。このような状況が続くのは、為政者である幕閣にとっても好ましくなかった。よって、幕府は寛政2年(1790年)から改善を試みることにした。 「下り物」に負けない製品を生み出す事を目指し「酒」や「木綿」「醤油」などの改良も奨励した。その結果、醤油や木綿など、幾つかの品目においてはある程度の成功を収め、特に醤油については銚子、野田、土浦などで、大成功を収めるに至った。関東の人間の嗜好に合わせた濃口醤油が普及した結果、時代が下るにつれ「下りもの醤油」の輸入は減っていった。文化年間に普及した「濃口醤油」、「上総木綿」、「本味醂」などが広まったのは定信以降の幕府の後押しと職人達の努力の成果といえる。 木綿や醤油と違い酒造に関しては上手くいかなかった。寛政年間、幕府は関八州拝借株を貸与し、「御免関東上酒」の製造を命じ、江戸で直接小売販売を行わせるなどして、関東地方の酒造業の保護、育成を行った。これは、関西地方から流入する「下り酒」に、江戸から流出する富の東西不均衡を是正する意味もあったが、関東酒の水準向上の原動力となった。 しかし、一定の成果こそ収めたものの、上方の酒の品質に勝つ酒はついぞ造れず、関東で酒を造り始めた酒家も続かず、発行された酒株も明き株となることも多々あったとされる。関東の酒蔵品質が飛躍を見せるのは明治時代後期においてである。 他にも新設した勘定所御用達へ江戸に住む者のみを充て、上方市場に対する江戸市場の地位を引き上げようとした。さらに多額の貨幣が東から西に流れることを正すため、南鐐二朱銀を西国筋や中国筋への流通を促し、金本位による統一的な貨幣市場を作ろうとした(p88)。
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