江戸城で斬殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 02:58 UTC 版)
延享4年(1747年)8月15日、月例拝賀式のため登城し、大広間脇の厠に立った際、乱心した旗本寄合席の板倉勝該に突然背後から斬りつけられ、まもなく絶命した。享年32。 これにより、細川家は窮地に陥った。32歳になったばかりの宗孝にはまだ子がおらず、養子も立てていなかったのである。殿中での刃傷にはただでさえ喧嘩両成敗の原則が適用される上、世継ぎまで欠いては細川家は改易必至だった。 この窮地を救ったのは、たまたまそこに居合わせた仙台藩主・伊達宗村である。宗村は機転を利かせ、「越中守殿にはまだ息がある、早く屋敷に運んで手当てせよ」と細川家の家臣に助言した。これを受けて家臣たちは、宗孝の遺体を城中から細川藩邸に運び込み、その間に藩主宗孝の弟・紀雄(のちの重賢)を末期養子として幕府に届け出た。そして翌日になって宗孝は介抱の甲斐なく死去と報告、細川家は事無きを得た。 墓所は京都府京都市の大徳寺高桐院。
※この「江戸城で斬殺」の解説は、「細川宗孝」の解説の一部です。
「江戸城で斬殺」を含む「細川宗孝」の記事については、「細川宗孝」の概要を参照ください。
- 江戸城で斬殺のページへのリンク