太平洋戦争中の改正
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/31 04:28 UTC 版)
「海軍機関科問題」の記事における「太平洋戦争中の改正」の解説
国際情勢不穏を理由に見送られた1941年の兵機一系化改正だったが、実際には、太平洋戦争勃発後になって次々と大規模改正が行われる結果となった。 まず、1942年(昭和17年)11月1日施行で、兵科士官と機関科士官の官階制度上の区別が撤廃され、兵科に統合された。機関科士官の階級は、従来の「機関中佐」などから、兵科と同じただの「中佐」などに変更された。機関科士官の階級章などに使われていた紫色の識別線も廃止になった。この改正は、特務士官の呼称変更と同時に実施された。もっとも、この改正は軍令承行権には及ばず、軍令承行令上では旧機関科士官を「将校(機)」として区別し(第5条)、旧兵科士官である「将校(兵)」がいる限り指揮権を承継できない実質に変わりはなかった。軍令承行令の特例という形でのみ、同年12月、海軍陸戦隊などの陸上部隊と輸送や練習を担当する海軍航空隊に限って、将校(兵)・将校(機)を問わず、さらには特務士官や予備士官までも含めた範囲で階級によって指揮権継承順位を決することが定められている。 1944年(昭和19年)8月になって、軍令承行令の大改正が実施され、ついに軍令承行権に関する兵機の原則平等化が実現した。機関科士官の悲願が、敗戦のわずか1年前になって成就したことになる。改正の目的は、戦闘消耗による旧兵科士官の人材枯渇を補うことが主たるもので、旧機関科士官の士気向上も合わせ考慮された。この昭和19年改正では、将校(兵)と将校(機)の区分が廃止され、原則として旧兵科士官・旧機関科士官を問わずに階級の上下により指揮権を承継する定めとなった。ただし、経過措置として特例が設けられ、軍艦(戦艦・空母・巡洋艦などの大型戦闘艦)・駆逐艦・潜水艦に関しては、従前通り旧兵科士官が優先される取り扱いとなった。なお、海防艦などの小型艦艇に関しては別の特例が設けられ、陸上部隊や航空部隊と同じく、特務士官などまで含めた範囲で階級で指揮権継承順位を決定することになっている。大型艦除外の特例が設けられたことに関しては、主要部分で最後まで機関科士官を差別し続けたものと批判する見方がある。一方で、機関科関係の教育のみを受け、機関科関係の職務のみに就いてきた旧機関科士官が艦橋に立って操艦や砲戦指揮を行うことは現実問題として不可能だから、妥当な経過措置であるとの見方もある。 指揮権に関する運用の実態としては、機関科出身の海軍航空隊司令が複数名誕生している。他方、軍令承行令では上位にあるはずの機関科出身の中将が、劣後する兵科の少将に指揮権を譲らされる事態も発生していた。 士官教育面での一系化も大戦中に行われた。1944年10月に、海軍機関学校が海軍兵学校に統合され、以後は海軍兵学校舞鶴分校と称した。もっとも、実際の教育内容は、当面の間は従来通りとするものとされ、そのまま終戦を迎えた。
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