太平洋戦争下の教育
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1941年(昭和16年)12月、日本は米英など連合国に対して全面的な戦争を開始し、日中戦争は太平洋戦争(大東亜戦争)へと拡大した。翌1942年(昭和17年)3月、人員が増大した陸軍経理学校は東京府北多摩郡小平村に移転した。同村の学校用地は30万坪の広さがあったとされる。 1942年4月、陸軍武官官等表ノ件中改正(勅令第297号)が施行された。この改正で文官(いわゆる軍属)であった建築関係の事務に従事する陸軍技師および陸軍技手が武官の建技将校および建技下士官となった。また従来の縫工准士官、縫工下士官と装工准士官、装工下士官は統合され、経技准士官、経技下士官になった。 陸軍武官官等表ノ件中改正による陸軍経理官の階級は次のとおりである(1942年4月時点)。 経理部 将官: 陸軍主計中将 陸軍主計少将 将官: 陸軍建技中将 陸軍建技少将 佐官: 陸軍主計大佐 陸軍主計中佐 陸軍主計少佐 佐官: 陸軍建技大佐 陸軍建技中佐 陸軍建技少佐 尉官: 陸軍主計大尉 陸軍主計中尉 陸軍主計少尉 尉官: 陸軍建技大尉 陸軍建技中尉 陸軍建技少尉 准士官: 陸軍主計准尉 / 陸軍経技准尉 / 陸軍建技准尉 下士官: 陸軍主計曹長 陸軍主計軍曹 陸軍主計伍長 下士官: 陸軍経技曹長 陸軍経技軍曹 陸軍経技伍長 下士官: 陸軍建技曹長 陸軍建技軍曹 陸軍建技伍長 同年同月、陸軍補充令中改正ノ件(勅令第324号)が施行された。それまでの改正によって経理部における現役将校の補充は、陸軍経理学校予科生徒からの経理部士官候補生制度、准士官または下士官からの経理部少尉候補者制度、陸軍部外の大学からの経理部見習士官制度の三つの柱が確立していたが、今回の改正では経理部見習士官の資格条件が次のとおり改められた(1942年4月時点)。 陸軍経理部委託学生となり当該学部の学課を修めた学士。 陸軍経理部委託生徒となり当該学校の課程を卒業した者。 大学令による大学の法・経済・商・工・理・農学部を卒業した学士。または主として工・農業に関する専門学校の卒業者。 上記のいずれかに該当し年齢30歳未満の志願者が銓衡のうえ経理部見習士官に採用され、規定の勤務を経て大学卒業者は主計中尉または建技中尉に、専門学校卒業者は主計少尉または建技少尉に任官する。 同じ1942年(昭和17年)4月、陸軍経理学校令中改正(勅令第305号)が施行された。改正学校令第1条で陸軍経理学校は「経理部佐尉官たる学生、経理部将校となすべき生徒、学生、および幹部候補生、ならびに経理部下士官となすべき下士官候補者を教育し、ならびに陸軍経理に関する学術の調査および研究を行い、かつ陸軍経理に関する図書の編纂をなす所」と定められた。さらに第1条では外国陸軍将校候補者(留学生)の教育を行うことが加えられた。学校の編制は陸軍大臣に隷する校長以下、幹事、本部、教育部、研究部、馬術部、生徒隊、学生隊、幹部候補生隊、下士官候補者隊、および学生となった。 学校令中改正による陸軍経理学校の被教育者は次のとおりである(1942年4月時点)。 佐尉官学生 被服、糧秣、営繕、兵器、会計監督専門の経理業務に関する教育を受ける。 主計少佐、主計大尉 修学期間は約4か月、毎年2回入校。 甲種学生 陸軍経理に関する高等の教育を受ける。 2年以上部隊に勤務した主計大尉または主計中尉(丙種学生の修学を終えた者を除く)のうち選抜試験に合格した者。修学期間は約2年、毎年1回入校。 乙種学生 陸軍経理に関する高等の教育を受ける。 丙種学生の修学を終わり、2年以上部隊に勤務した主計大尉または主計中尉、および建技大尉または建技中尉のうち選抜試験に合格した者。修学期間は約1年、毎年1回入校。 丙種学生 陸軍経理に関する教育を受ける。 陸軍補充令第24条第3号の規定により任官した主計中尉または主計少尉、および建技中尉または建技少尉。修学期間は約1年、毎年1回入校。 丁種学生 現役経理部将校に必要な教育を受ける。 特別志願将校のうち昭和14年勅令第731号第2条の規定により派遣された者。修学期間は約1年、毎年1回入校。 己種学生 経理部将校となるのに必要な教育を受ける。 経理部少尉候補者。修学期間は約1年、毎年1回入校。 予科生徒 経理部士官候補生に必要な基礎の教育を受ける。 経理部士官となることを志願し、召募試験に合格した者。修学期間は約2年。 本科生徒 経理部将校に必要な教育を受ける。 経理部士官候補生で所定の隊附勤務を修得した者。修学期間は約2年。 幹部候補生 予備役経理部将校に必要な教育を受ける。 各隊より分遣する経理部甲種幹部候補生。修学期間は約11か月。毎年1回入校。 下士官候補者 経理部下士官に必要な教育を受ける。 各隊より分遣する者。修学期間は約1年。毎年1回入校。 丙種学生の「陸軍補充令第24条第3号の規定」は上述した経理部見習士官制度のことである。丁種学生の特別志願将校とは予備役将校のうち召集でなく志願により軍務につく者で、「昭和14年勅令第731号第2条の規定」とは所属部隊長等に選抜され、陸軍諸学校で現役に転じる教育を受けることである。それまでの丁種学生、すなわち経理部少尉候補者は己種学生となった。下士官候補者は兵より主計伍長または建技伍長となる者である。学生は校外に、生徒、幹部候補生、下士官候補者は校内に居住する、ただし教育上の必要がある場合には学生を校内に居住させることが可能であった。 1944年(昭和19年)4月、陸軍補充令中改正(勅令第244号)が施行された。この改正によって現役経技下士官および現役建技下士官の補充源には、経理部少年委託生徒として陸軍部外の実業学校を卒業した経技下士官候補者または建技下士官候補者が加わった。経理部少年委託生徒の資格条件は次のとおり(1944年4月時点)。 中等学校令による工業学校(建築・土木・工業化学・紡織・色染の各学科および類する学科)、農業学校(農業・農芸・畜産・林業・農蚕の各学科および類する学科)、および水産学校(水産製造科および類する学科)に在学する生徒のうち卒業見込みの者。 上記に該当する18歳未満の志願者が身体検査と口頭試問を経て経理部少年委託生徒に採用され、学校卒業後に経技または建技下士官候補者として兵長の階級を与えられ、陸軍経理学校(または他の部隊)で約1年教育を受けると定められた。 同年5月、陸軍兵科及経理部予備役将校補充及服役臨時特例(勅令第327号)が施行された。この勅令は「当分のうち」に限り、兵科および経理部の予備役将校を特別甲種幹部候補生(特甲幹)により補充することを可能にするものである。 勅令で加えられた陸軍経理学校の被教育者は次のとおり(1944年5月時点)。 特別甲種幹部候補生 予備役経理部将校となるのに必要な教育を受ける。 経理部特別甲種幹部候補生。修学期間は約1年。 詳細は「幹部候補生 (日本軍)#特別甲種幹部候補生」を参照 経理部の特甲幹は陸軍部外の高等教育機関のうち法律・経済・商業・工業(建築・土木・応用化学・染色・紡績)、農業に関する学科の専門学校または同等以上学校の30歳未満の卒業者あるいは在学者で、最終学歴の学校教練検定に合格している必要があった。採用された特甲幹は主計伍長の階級で陸軍経理学校に入校し、在校中に主計軍曹に階級を進め、卒業時に経理部見習士官を命じられると定められた。同年5月10日、特甲幹第1期の召募が告示された(陸軍省告示第17号)。 日中戦争から太平洋戦争の期間、年を追うごとに戦局は激化し、陸軍では兵科同様に経理官も大量かつ早急な補充が求められるようになった。そのため陸軍経理学校の学生、生徒、幹部候補生、下士官候補者など各教育の実状は学校令その他で定められた修学期間を大幅に短縮し、予科生徒の採用年齢は15歳以上、20歳未満と下限が変更されている。 1945年(昭和20年)8月、日本政府はポツダム宣言受諾を決定した。終戦の玉音放送が8月15日に行われ、それ以後の陸海軍は従来の機能を失った。石川県金沢市と福島県若松市(現在の会津若松市)に分散し疎開中であった陸軍経理学校は同月のうちに閉校となった。学校の根拠となる陸軍経理学校令は、同年11月13日施行の「陸海軍ノ復員ニ伴ヒ不要ト為ルベキ勅令ノ廃止ニ関スル件」(勅令第632号)により廃止された。
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