太平洋戦争の影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 10:05 UTC 版)
「オパールオーキツト」の記事における「太平洋戦争の影響」の解説
日本国内の競走馬の数は、太平洋戦争の結果、半分に激減してしまった。 戦争中、競馬場が軍に接収されたり、競走馬の飼料や蹄鉄などの物資が手に入らなくなって競馬の開催が困難になった。また、競馬関係者や馬主の中にも招集されたり戦死するものが出て、経済的・法的に競走馬の所有関係の維持が困難になった。競走馬が売れなければ生産者も生産を控えたり、軍馬や使役馬などの実用馬生産に切り替えたりして、競走馬の生産数も落ち込んだ。 競走馬も軍馬として戦地に送り込まれたまま返ってこなかったし、生産地も戦争で荒廃した。さらに、軍馬育成・統制の方針はGHQによって大転換されることになったが、全国に設けられていた国営の種牡馬繋養施設や官民・中央地方の産馬推進・統制組織の解体、馬産と競馬に関する様々な法令の失効、馬に関する資料の喪失は、生産地に大きな打撃となった。 それでも終戦後すぐに、娯楽としての競馬が再開された。しかしすぐに、競走馬の数が不足することになった。競馬場ではほとんどのレースが3頭や4頭しか出走馬が集まらなかった。 一方、馬産地で問題になったのは血統の更新が行き詰っていたことである。純血種であるサラブレッドの外国からの輸入は、盧溝橋事件が起きた1937年(昭和12年)のセフトを最後に10年以上途絶えていた。終戦の時点で日本国内で共用されていた内国産サラブレッド種牡馬58頭のうち54頭がわずか10系統に集中している、という極端な状態に陥り、近親交配が行き過ぎてしまう懸念があった。
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