太平洋戦争と財閥解体
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1937年7月、藤本ビルブローカーが藤本有価証券組合を結成した。組合員が運営することが難しいので藤本証券が世話役を買ったところ、信託類似の行為であるとして業界と政府当局の反対により打ち切られた。1940年6月25日、大蔵省は寛大な指令を出した。「今後は信託会社と連携し、委託者の募集の斡旋、信託会社の証券投資事務の範囲内において、ユニット・トラストの形における投資信託に関与することは差し支えなし」というので、野村証券が認可を求めたところ1941年11月13日大蔵省が認可した。野村投信は太平洋戦争緒戦の戦果による株価高騰で含み益を得た。 1942年9月、藤本、山一、小池、川島屋、共同の5社が、合弁で創設した日本投資信託(1950年から東京信託銀行)を特定金銭信託の受託者として、一斉に投資信託業務をスタートした。1943年まで順調に毎月募集された。 1944年4月設定分からは、国民貯蓄組合の斡旋する貯蓄の対象となって、1ユニットにつき元本一万円までは収益が非課税とされたので、募集額が飛躍的に増大した。これらクローズド型ファンドは、軍需産業をはじめ外地の会社の証券にも投資をしていたので、敗戦にともない大打撃を受けた。逆コースで株式市況が立ち直ると、各社とも朝鮮戦争勃発までに全額償還した。 野村の投信は戦時投資信託設定総額の47%を占め、二位の山一のほぼ2倍であった。組み入れ証券のうち、国債は額面100円に市場価格は75円程度、株式には時価不明のもの、許可なしでは処分できない外地会社・制限会社もあり、社債もほとんど市場性がない閉鎖機関・企業再建整備会社の発行社債であり、顧客と損失補填を契約していたこともあって償還は延期されていた。 1951年6月、証券投資信託法が施行された。この制度は財閥解体による株式の肩代わり機関として始まった。奥村綱雄がGHQ経済科学局のアリソン次官を黙認させ、法案審議では池田勇人蔵相が必要性を強弁していた。施行後すぐ野村、日興、山一、大和の4社が登録した。大阪屋証券(現・岩井コスモ証券)と大井証券(現・新光証券)が7月と9月に登録した。彼らが募集したのは単位型であったが、無記名式を新たに採用し、買い取りと一部解約を制度化し、契約から資産構成を解放し、戦前の損失補填特約を廃した。池田・ロバートソン会談のときにデフレ政策がとられて株価が大きく下がり、1955年まで運用成績は低迷した。すでに設定されていた追加型は1956年1月から信託期間が無期限となった。
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