太平洋戦争と撃沈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/29 14:56 UTC 版)
太平洋戦争勃発後も湖南丸が軍に徴用されることは無く、船舶運営会の下で民需用に那覇航路で運航された。日本近海でもアメリカ潜水艦による通商破壊が行われ、同じ那覇航路の嘉義丸撃沈など被害が出ていたため、佐世保鎮守府の護衛の下で護送船団に加入することもあった。 湖南丸の最後の航海となったのは、戦争中期の1943年(昭和18年)12月の那覇からの定期航海であった。対馬丸などとともに沖縄戦関連の船舶犠牲として語られることがあるが、沖縄からの民間人疎開が決定された1944年(昭和19年)7月以前であり、疎開船としての行動ではない。海軍飛行予科練習生予定者や女子挺身隊などを含む民間船客683人(経由地の奄美大島からの乗船を含む)が乗船しており、船員72人と海軍警戒隊4人が運航に当たった。貨物は雑貨1766トンと郵便物等が積みこまれていた。 12月19日、湖南丸は大信丸、延寿丸と鹿児島行きの沖903船団を組み佐世保防備戦隊所属の特設捕獲網艇「第二新東丸」の護衛で那覇を出港した。経由地である奄美大島の名瀬港までは何事もなく、20日午後5時に名瀬港を出た沖903船団は、港外で慶山丸を加えて加入輸送船4隻となった。敵潜水艦の攻撃を警戒して、当初は横一列の陣形を組むことで魚雷攻撃に弱い側面をかばいあって進んだが、同日午後7時に悪石島を通過してからは単縦陣に陣形を変えた。警戒航行中の21日午前1時38分、口永良部島西方18km付近(北緯30度26分 東経129度58分 / 北緯30.433度 東経129.967度 / 30.433; 129.967)において湖南丸はアメリカの潜水艦グレイバックの雷撃に遭った。グレイバックの魚雷2発が右舷に命中した湖南丸はわずか2分で沈没してしまった。 湖南丸の乗船者は3隻の救命ボートや筏などで漂流し、うち約400人が護衛協力中の大島防備隊所属特設捕獲網艇「柏丸」(宇和島運輸:515総トン)により収容された。ところが、救助活動中の柏丸もグレイバックの魚雷2本を受けた。暖を取るために遭難者の多くが集まっていた機関室に直撃、船体の破片を飛散させながら一瞬で轟沈した。第二新東丸と漁船が湖南丸の救助活動にあたったが発見できた生存者はわずか5名のみで、湖南丸では船客576人・船員69人・海軍警戒隊員3人が死亡した。なお、日本海軍は対潜艦艇4隻と航空機を現場に急派して23日朝まで対潜掃討を行ったが、成果は無かった。
※この「太平洋戦争と撃沈」の解説は、「湖南丸」の解説の一部です。
「太平洋戦争と撃沈」を含む「湖南丸」の記事については、「湖南丸」の概要を参照ください。
- 太平洋戦争と撃沈のページへのリンク