太平洋戦争での活動
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「神川丸 (特設水上機母艦)」の記事における「太平洋戦争での活動」の解説
1941年(昭和16年)5月、佐世保海軍工廠に入渠して出師準備計画に沿った改装が行われ、カタパルトを1基装備した。また、零式水上偵察機を前甲板に2機と後甲板に2機の計4機、零式水上観測機を前甲板に2機と後甲板に6機の計8機搭載できるように改められた。兵装は12センチ高角砲2門から15センチ単装砲2門に換装され、対空機銃も装備された。 11月22日に佐世保を出港し、11月27日に三亞に到着。太平洋戦争緒戦では第十二航空戦隊の「神川丸」、「山陽丸」と第九根拠地隊の「相良丸」で馬来部隊の第二航空部隊を編成し、マレー半島への上陸作戦に参加した。その任務は船団の護衛、泊地の警戒および陸戦の支援であった。「神川丸」の水上機は索敵や船団の護衛、シンゴラでの陸戦支援などに従事した。「神川丸」は12月6日に三亞を出港し、カムラン湾へ向かった。12月7日、索敵からの帰投途中の「神川丸」の零式水上偵察機がイギリスのPBYカタリナ飛行艇と遭遇して交戦し、そのカタリナは陸軍機により撃墜された。同日、船団護衛に従事した「神川丸」の観測機1機が山に接触、1機が着水時に転覆して大破した。マレー沖海戦のあった12月10日、「神川丸」と「山陽丸」の水上機も索敵を行ったがこれらは「神川丸」の水上機がスウェーデン船を発見したのみでイギリス艦隊は発見できなかった。 次いでミリ、セリア、クチン攻略戦(英領ボルネオ作戦)の支援を行った。1942年(昭和17年)に入ってからはカムラン湾での整備作業に専念していたが、2月から3月にかけては蘭印作戦に協力し、パレンバン、ジャワ島作戦で搭載機による対潜哨戒などに従事した。3月10日付で第四艦隊(司令長官井上成美中将・海兵37期)付属となり、南東方面に転じる。4月から5月にかけてはツラギ攻略作戦協力 に続いて、ポートモレスビー攻略を目的とする珊瑚海海戦では、デボイネに前進水上機基地を設営し飛行機隊を移した後、ウッドラーク島(英語版)近海で基地航空隊や掩護部隊の指揮を執った。ポートモレスビー攻略作戦が中止になるとショートランドに帰投し、ラバウルを経てサイパン島に移動した。 5月20日附で「神川丸」は正式に第十一航空戦隊(司令官藤田頼太郎少将)に編入された。これは同月1日に水上機母艦瑞穂(十一航戦所属)が撃沈された為である。5月下旬から6月上旬にかけてのミッドウェー作戦における「神川丸」は、第十一航空戦隊(司令官藤田類太郎少将)を基幹とする航空隊(千歳、神川丸、駆逐艦早潮、第35号哨戒艇〔旧駆逐艦蔦〕、海軍陸戦隊1個小隊)として参加する。航空隊は、ミッドウェー島占領に向かう輸送船団と護衛隊(指揮官田中頼三第二水雷戦隊司令官)の対潜・対空警戒およびキューア島(クレ環礁、ミッドウェー島北西方向)の占領、作戦成功後のミッドウェー島水上機基地建設という任務を与えられた。5月28日、航空隊4隻は他部隊と共にサイパン島を出撃。6月4日、航空隊4隻(千歳、神川丸、早潮、35号哨戒艇)は事前の計画どおり攻略船団と分離してキューア島に向かった。6月5日、第一航空艦隊の主力空母4隻(赤城、加賀、飛龍、蒼龍)は米海軍機の空襲により炎上、戦闘不能となる。1000、攻略部隊指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官は船団部隊(田中頼三司令官)に対し、第十一航空戦隊司令官指揮による輸送船団の避退と、第二水雷戦隊の攻略部隊本隊(第二艦隊)への合流を命じる。キューア島に向かっていた航空部隊は反転、速力24ノットの2隻(千歳、早潮)は同日1630に、低速の神川丸等は6月6日0400に、それぞれ船団部隊と合流。船団は、藤田司令官の指揮下で南鳥島方面への退避を続けた。同日夜、山本五十六連合艦隊司令長官は北方部隊増強を下令。神川丸は燃料補給を受けたのち、北方部隊に編入されることになった。6月8日1710、神川丸(乗艦中の二聨特陸戦隊1コ分隊ふくむ)は船団部隊と分離。6月9日午前中に、第三戦隊第1小隊(比叡、金剛)等と合流して北方に向かった。同日正午より第五艦隊司令長官細萱戊子郎中将(北方部隊指揮官)の指揮下に入り、神川丸艦長指揮下の水上機部隊(特設水上機母艦《神川丸、君川丸》、駆逐艦汐風)を編成。アッツ島およびキスカ島攻略作戦にも参加した。6月15日、「神川丸」はキスカ島に到着、飛行哨戒を開始する。熱帯地作戦の装備のままミッドウェー作戦を経て北方海域に転進したため、「神川丸」は寒冷地作戦の装備がなく苦労することになったという。 7月14日付で、「神川丸」は第二艦隊(司令長官近藤信竹中将・海兵35期)麾下の第十一航空戦隊に編入され、再びショートランド方面に進出。ソロモン方面の作戦を支援した。1943年(昭和18年)2月1日、ショートランドで停泊中に爆撃を受け損傷する。修理後も横須賀とトラックおよびラバウル方面を往復する輸送任務に任じた。
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