太平洋戦争と民主化の進展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 16:57 UTC 版)
「チリの歴史」の記事における「太平洋戦争と民主化の進展」の解説
1878年の大不況はチリという国の形を一変させた。まず金本位制を離脱した。関税は産業保護へ傾き始めた。 ボリビアによる、アントファガスタのチリ硝石企業への課税をきっかけに、1879年4月5日、チリはペルー・ボリビア両国に宣戦布告し、太平洋戦争が勃発した。硝石証券の価格が暴落して、イギリスがそれを買い漁った。イギリスの支援を受けたチリは完全な勝利を収めて、1884年の講和条約によりボリビアからはアントファガスタを中心とするリトラル県(スペイン語版、英語版)を、ペルーからはタラパカ、アタカマ(スペイン語版、英語版)を獲得した。戦中1882年に南部のマプーチェ人が最後の大規模な組織的反乱を起こしているが、鎮圧後はチリ社会の底辺層に組み込まれていった。南部にはドイツをはじめとするヨーロッパから移民が入植した。 太平洋戦争以降はペルー、ボリビア両国との関係が険悪となり、現在も紛争が続いている。アタカマ国境紛争(スペイン語版、英語版)やプナ・デ・アタカマ紛争(スペイン語版、英語版)である。 終戦後まもない1884年8月1日に硝石史上初のカルテルが結成された。しかしギブス商会が無理に割当を拡大したり、ジョン・トーマス・ノースが別腹で処女地を開発しようとしたりしたためカルテルは分解した。1886年に大統領に就任したホセ・マヌエル・バルマセーダ(英語版)は、ペルーやボリビアから獲得した鉱山資源を背景にイギリスの経済支配からの脱却を目指して国民主義政策と富国強兵政策を行った。1887年から1899年にかけて硝石ブームが起き、イギリスから南米向けの資本輸出がピークを迎えた。硝石産業は基幹化していくが、脆弱な経営基盤はノースなどの外国資本が参入する隙を与えた。戦時に買い漁った硝石証券で事業進出を果たしたのである。ノースはベルギーのレオポルド2世とパートナーであった。勢いのあったイギリス資本はしかし、ハーバー・ボッシュ法が知られるに伴い撤退していった。1891年、専制的大統領統治に対して議会や海軍が反乱してチリ内戦(英語版)に発展した。ここでホセ大統領は議会軍に敗れて失脚し、自殺した。内戦以降チリでは議会主導の政治が確立された。ポルタレス体制とは対照的な「強い議会、弱い大統領」の時代が1920年代まで続いた。そしてチリの硝石産業は先のハーバー・ボッシュ法により褐炭と競合して輸出量を激減させた。
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