太平洋戦争における竹槍の使用
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「竹槍三百万本論」の記事における「太平洋戦争における竹槍の使用」の解説
太平洋戦争においては、マレー作戦で拳銃隊と共に竹槍部隊が上陸するなど、僅かではあるが竹槍を武器の1つとして利用することもあった。 太平洋戦争後半、戦局の悪化により本土決戦が叫ばれ、1945年(昭和20年)3月24日、「国民義勇隊組織に関する件」の発表に伴い国民義勇隊が組織されることとなった。ただし、国民義勇隊では竹槍による訓練等は行わないものとしていた。 その翌月4月25日、大本営陸軍部により、全国民に対する本土決戦時の手引書である『国民抗戦必携』と題した冊子が発行された。『国民抗戦必携』の内容は1945年(昭和20年)6月10日から6月13日にかけて『朝日新聞』にて紹介されており、その中の「白兵戦闘と格闘」の章において以下の解説がされている。 銃、劍はもちろん刀、槍、竹槍から鎌、ナタ、玄能、出刃庖丁、鳶口に至るまでこれを白兵戰鬪兵器として用ひる、刀や槍を用ふる場合は斬擊や橫拂ひよりも背の高い敵兵の腹部目がけてぐさりと突き刺した方が效果がある、ナタ、玄能、出刃庖丁、鳶口、鎌等を用ひるときは後から奇襲すると最も效果がある、正面から立ち向つた場合は半身に構へて、敵の突き出す劍を拂ひ、瞬間胸元に飛びこんで刺殺する、なほ鎌の柄は三尺位が手頃である — 大本營陸軍部刊行『國民抗戰必携』、『朝日新聞』朝日新聞東京本社、昭和20年6月11日、2面 また、その翌月5月24日、内閣総理大臣である鈴木貫太郎(1868-1948)が、航空機製造会社の代表者百数十人を首相官邸に招待して、航空機増産激励会を催し、その挨拶において竹槍について下記の発言をしている。 しかもなほ直面せる戰爭の實態はあくまでも旺盛なる士氣と近代科學の粹を集めた立體作戰に終始し、決して竹槍をもつて戰ひ得るごとき戰爭觀であつてはならぬのであつて、一に航空機を核心として勝敗の歸趨を決するの堅い覺悟をもたねばならぬ — 鈴木首相、『朝日新聞』朝日新聞東京本社、昭和20年5月25日、1面 これは航空機の関係業者を集めた会合なので、特にその者達を激励するための発言であるが、航空機等の近代兵器の必要性を説くだけでなく、不毛な竹槍訓練を批判する意図も含められていると考えられる。 結果として竹槍戦術は正式には採用されないまま、1945年(昭和20年)8月14日、日本はポツダム宣言を受諾したため、本土決戦に至る前に終戦を迎えた。
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