太平洋戦争による被害
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1944年(昭和19年)末以降になると、日本本土空襲が激化していった。1944年(昭和19年)10月、B-29100機を率いてサイパン島に着任したアメリカ陸軍航空隊の第20空軍 隷下の第21爆撃集団司令官ヘイウッド・ハンセル准将は高々度精密爆撃による「六市・六産業」攻撃論者であった。六市とは東京、川崎、横浜、名古屋、大阪、神戸を指し、六産業とは鉄鋼、航空機、造船、港湾倉庫、ボール・ベアリング、電機を指す。一方、その後任として1945年(昭和20年)1月20日にグアムに着任したカーチス・ルメイは住宅地を含む焼夷弾無差別爆撃論者であり、攻撃対象を全国の都市に拡大した。 太平洋戦争による国鉄車両の損害項目損害廃車中破小破被害率(%) 機関車891 17 279 595 14 客車2228 913 461 854 19 電車563 361 36 166 26 貨車9557 2190 7367 8 合計13239 10 しかし、当時の日本国内で近代的な陸上交通機関としては絶対的な地位を占めていた鉄道網を軍として明確に攻撃対象とすることは無く、鉄道網に対する組織的な攻撃は1945年(昭和20年)8月15日の岩国機関区に対する爆撃が最初にして最後であった。なお、国鉄によって運用されていた航路については日本の保有船舶が受けた壊滅的損害と同様に大きな損害を受け、何れも切断されている。 このため、空襲時に周囲の市街地ごと駅や車庫などの設備が焼失したり、洋上の航空母艦から発進した艦上機の機銃掃射 を受けた列車などがあったほかは、国鉄の輸送網が完全に機能不全に陥ることは無かった。こうして、終戦の日も国鉄の列車は運行され続けたのである。こういった事実から、青木慶一はドイツ軍による組織的な輸送網の要点攻撃の対象になった国々の事例を示した後、(被害は)「ポーランドやフランスの足許にも及ばない」と述べている。また、終戦後満州やドイツで見られたようなソ連軍による線路を含む設備の持ち去りも無かった。 1966年(昭和41年)2月26日、参議院運輸委員会において公明党の浅井亨議員は当時の日本国有鉄道総裁石田礼助に対し「国鉄は戦争で壊滅的打撃を受けたが、これに対して、充分な復興措置が取られたのか」と質問した。青木慶一は「壊滅的打撃を受けた事実がない」「日本国鉄の輸送力が貧弱である現状を、その原因が米軍乃至米国に在ると称して、罪を米人に転嫁しようとしている」と批判している。 服部卓四郎は著書において次のように述べている。 鉄道交通は七月 以降、南九州地区の昼間運行が漸次困難となり、又青函連絡が切断された以外は、中小都市爆撃に伴う一時的な障害を除き、なお本土の一貫運行を維持することができていた。米空軍が鉄道に対する本格的攻撃を延引したことは、日本のために真に僥倖であった。巨大な本土決戦兵力と、軍需品の展開ができたのも、戦時産業活動で国民生活を辛うじて支え得たのも、実にそのためであった。戦後になってから米爆撃調査団は、米空軍のこの戦略的過失を鋭く指摘している。 — 服部卓四郎「第一〇章 本土における防空作戦」『大東亜戦争全史』
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