太平洋戦争と汪政権
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アメリカとの対立を深めていた日本は、1940年11月、野村吉三郎を駐米大使として和平交渉にあたらせたが事態は好転しなかった。民間においても日米和平が模索され、アメリカが日本軍の中国からの撤退と満洲国承認を前提に汪兆銘・蔣介石両政権の合流をはかるという案には近衛も陸軍も賛成したが、アメリカ政府はこれに合意をあたえなかった。 1941年8月28日、日本政府はアメリカに、近衛文麿首相とフランクリン・ルーズヴェルト大統領との会談を申し入れたが実現しなかった。事情を知らない汪兆銘は日米会談が実現した場合を想定して、近衛首相あてに書簡を送り、アメリカは日華基本条約の修正を求めてくると思われるが、もし安易に修正に応じれば親米反日の傾向の強い中国民衆はいっそうその傾向を強め、結果としてアジアの不利を招くこと、また、修正の成功をアメリカが独自に重慶に知らせれば、重慶政府は自らの成果であると喧伝し、民衆も惑わされ、汪政権が信用を失うことにつながりかねないとして、もし条約の修正が不可避の場合は事前に汪政権に相談してほしい旨を伝えた。 また、近衛はアメリカに対し日米開戦を回避しようという趣旨の「申入書」の案を練り、9月3日の「大本営政府連絡会議」で提案する予定であったが、これも実行できなかった。近衛は10月18日に首相の座を東条英機にゆずった。 1941年(民国30年、昭和16年)12月8日、日本は真珠湾作戦を敢行し、太平洋戦争が始まった。事前に日本の開戦について知らされていなかった汪は驚き、「和平」の実現がますます遠のいたことを悟ったと思われる。ただし、日米交渉がことごとく不調に終わったことは汪も知悉しており、虚を衝かれたというほどではなかった。汪自身は日本の国力では米英に対抗できないとの判断から開戦には反対だったが、12月8日付で「大東亜戦争に関する声明」を出した。汪は、米英帝国主義を批判したうえで、国民政府としては日本とこれまで結んだ条約を重んじ、アジア新秩序の建設という共同目的達成のために日本と苦楽をともにすべきこと、かつての辛亥革命の精神にもとづいて孫文の大アジア主義を遂行し、和平、反共、建国の使命を全うすべきことを民衆に訴えた。 日米開戦の日、蔣介石率いる重慶政府は日本・ドイツ・イタリアに対し、宣戦布告を行った。汪兆銘は、もはやかつての「一面抵抗、一面交渉」方針はどうみても不可能な情勢であると判断し、日本の影佐禎昭少将(当時)に対して南京政府は日本側で参戦する意思があると伝えたが、慎重な影佐は、満洲国が日ソ中立条約を考慮して宣戦していないのに、南京政府があえて参戦することは必ずしも合理的でないとしてむしろ汪の気持ちを宥めた。 1942年、特命全権大使として南京に赴任した重光葵は1月12日、汪兆銘に国書を奉呈し、翌日より数度にわたって南京の汪公館にて重光と汪の会談がおこなわれた。汪の発言は、従来の思慮深い彼からするときわめて大胆かつ強硬なものであり、「大東亜戦争が勃発したことで、ある種の新鮮な感覚が生まれた」「新時代を画する大展開であり喜ばしい」「中国の立場としては、当然、日本の勝利を願いつつも、政府としてどのように協力すればいいのか苦慮している」、さらに「重慶に反省を促し、もし反省しないなら彼らを壊滅させるよう努力する」というものであった。そして、当初は蔣介石打倒などということは毛頭考えなかったが、重慶政府が米英と結んでビルマにまで出兵するにいたった以上、和平工作は放棄する以外になく、もし重慶が希望するように日本が敗れるならば、中国は滅亡し、東アジア全体が欧米植民地に転落してしまうだろうと述べた。彼としては、孫文における「三民主義」を脇に置いてでも、その一方の主張である「大亜細亜主義」を前面に掲げ、白人帝国主義に対抗する姿勢を示すと同時に、第二次世界大戦が終結する前に日中戦争を解決することが肝要だと考えていたのである。 3月25日、日本政府は広東のイギリス租界を汪兆銘政権に移管した。6月1日、汪兆銘政権の特使として褚民誼が来日し、昭和天皇に拝謁した。 1942年6月5日のミッドウェー海戦を機に日本は敗勢を強めていったが、汪政権はもとより日本国民の多くも大敗の真相は知りえなかった。7月7日、タイ王国は汪兆銘の南京国民政府を承認している。7月28日、日本銀行は南京政府の通貨制度が混乱し、危機に陥っているのを救援するため、周仏海の中央儲備銀行に対して1億円の借款供与契約を結んでいる。 9月1日、日本政府は閣議で「大東亜省」の設置を決定したが、東郷茂徳外相は二元外交の原因になりかねないとしてこれを批判し、結果として辞職した。後任は置かず、東条首相が外相を兼務した。 1942年9月22日、平沼騏一郎、有田八郎、永井柳太郎が特使として南京を訪れた。汪兆銘は、重慶政府との和平工作はすでに限界に達しており、南京政府の和平地域に所在する住民ですら、和平にも抗日にも倦み疲れている実情を説明し、南京政府を強化させる手立てとして、 南京政府の管掌下にある地方組織に対し、日本側から頭越しに直接指示するなどして治安を妨害しないこと。まして、所属官吏の任免を日本がつかさどるのは論外であり、必ず大使館を通じて南京政府と相談すること。 中国にとっても、現下の日本にとっても中国の農業・工業・商業の発達は急務であり、その発達を阻害するような規制や束縛は、日本政府の文書によって撤廃されてしかるべきこと。 の2点を求めた。のちに傀儡政権として断罪された汪兆銘政権であったが、日本占領地域に居住する中国民衆の暮らしには最大限の気遣いを示していたのである。 11月1日、興亜院が廃止されて大東亜省が正式に発足した 。12月25日、訪日中だった汪兆銘は東京の総理官邸で東条英機と会談をもち、日本占領下の上海や南京でいかに汪政権が民衆から信頼されにくいかを訴え、日本側の善処を求めた。なお、汪はこの訪日時に大勲位菊花大綬章を授与されている。 結局、汪政権も枢軸国側として参戦することとなった。1943年1月9日、汪兆銘を首班とする南京国民政府は米英に対し宣戦布告した。それに伴い南京中山路で国民政府の軍隊による米英への宣戦布告大パレードが行われた。同時に日本は汪兆銘政権との間に租界還付、治外法権撤廃の協定を結び、米英もその直後、蔣介石政権との間で不平等条約による特権を放棄する新条約を結んだ。これにより中国は、中立国とフランスのヴィシー政権以外のあいだに結ばれていた不平等条約をすべて解消することとなった。日本政府はまた、南京駐在のヴィシー政府代表に連絡して上海の共同租界の行政権を南京政府に還付させることに成功した。汪兆銘は2月2日付の訓令で、青天白日旗の上につけていた「和平 反共 建国」の三角標識を撤去するよう指示した。 なお、3月には延安に拠点のあった中国共産党が汪兆銘政権と合作すべく秘密裏に接触してきている。これは、毛沢東の指示のもと劉少奇が共産党員の馮竜を使者に任じ、上海において周仏海に面会させたものであった。この合作は実現しなかったが、馮竜の叔父の邵式軍(中国語版)が中央儲備銀行の監事だったところから周仏海と親しい一方、日中戦争の際には共産党にひそかにつながっており、共産党に資金を流していたところから、この面会は邵式軍が手配したものとみられる。 1943年9月9日、汪兆銘の信頼の厚い李子群が暗殺される事件が起こっており、9月22日には汪が訪日して昭和天皇に拝謁し、東条首相と面談している。敗色の濃くなった日本は、この年の8月にビルマ、10月にフィリピンと自由インド仮政府をそれぞれ承認し、同時に各国と同盟条約を結んだ。汪兆銘政権とは10月30日に日華同盟条約を結び、付属議定書では戦争状態終了後の撤兵を約束した。 1943年11月5日から6日まで、東京では大東亜会議が開かれた。汪兆銘は南京国民政府代表(ただし、肩書きは行政院長)としてタイやビルマ、フィリピン、満州国、自由インドなど、他のアジア諸国の首脳とともに出席した。上述の独立承認・同盟条約締結の措置は、ここで調印・発表された大東亜宣言の前提をなすものであった。なお、島本真の備忘メモによると、大東亜省ならびに中華民国国民政府の要請により、南京、上海、蘇州において中華民国滑空士指導者講習会も行ったという。
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