太平洋戦争と汪政権とは? わかりやすく解説

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太平洋戦争と汪政権

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 23:36 UTC 版)

汪兆銘」の記事における「太平洋戦争と汪政権」の解説

アメリカとの対立深めていた日本は、1940年11月野村吉三郎駐米大使として和平交渉にあたらせたが事態好転しなかった。民間においても日米和平模索され、アメリカ日本軍中国からの撤退満洲国承認前提汪兆銘蔣介石政権合流をはかるという案には近衛陸軍賛成したが、アメリカ政府はこれに合意をあたえなかった。 1941年8月28日日本政府アメリカに、近衛文麿首相フランクリン・ルーズヴェルト大統領との会談申し入れた実現しなかった。事情知らない汪兆銘日米会談実現した場合想定して近衛首相あてに書簡送りアメリカ日華基本条約修正求めてくると思われるが、もし安易に修正応じれば親米反日傾向の強い中国民衆はいっそうその傾向強め結果としてアジアの不利を招くこと、また、修正成功アメリカ独自に重慶知らせれば、重慶政府は自らの成果であると喧伝し、民衆惑わされ、汪政権信用を失うことにつながりかねないとして、もし条約修正不可避場合事前に政権相談してほしい旨を伝えたまた、近衛アメリカ対し日米開戦回避しようという趣旨の「申入書」の案を練り9月3日の「大本営政府連絡会議」で提案する予定であったが、これも実行できなかった。近衛10月18日首相の座を東条英機ゆずった1941年民国30年昭和16年12月8日日本真珠湾作戦敢行し、太平洋戦争始まった事前に日本開戦について知らされていなかった汪は驚き、「和平」の実現がますます遠のいたことを悟った思われる。ただし、日米交渉ことごとく不調に終わったことは汪も知悉しており、虚を衝かれたというほどではなかった。汪自身日本国力では米英対抗できないとの判断から開戦には反対だったが、12月8日付で「大東亜戦争に関する声明」を出した。汪は、米英帝国主義批判したうえで、国民政府としては日本これまで結んだ条約重んじアジア新秩序建設という共同目的達成のために日本苦楽をともにすべきこと、かつての辛亥革命精神もとづいて孫文大アジア主義遂行し和平反共建国使命全うすべきことを民衆訴えた日米開戦の日、蔣介石率い重慶政府日本ドイツ・イタリア対し宣戦布告行った汪兆銘は、もはやかつての「一面抵抗一面交渉方針はどうみても不可能な情勢であると判断し日本影佐禎昭少将当時に対して南京政府日本側で参戦する意思があると伝えたが、慎重な影佐は、満洲国日ソ中立条約考慮して宣戦していないのに、南京政府があえて参戦することは必ずしも合理的でないとしてむしろ汪の気持ち宥めた。 1942年特命全権大使として南京赴任した重光葵1月12日汪兆銘国書奉呈し、翌日より数度わたって南京の汪公館にて重光と汪の会談おこなわれた。汪の発言は、従来思慮深いからするときわめて大胆かつ強硬なものであり、「大東亜戦争勃発したことで、ある種新鮮な感覚生まれた」「新時代画する大展開であり喜ばしい」「中国の立場としては、当然、日本勝利を願いつつも、政府してどのように協力すればいいのか苦慮している」、さらに「重慶反省促し、もし反省しないなら彼らを壊滅させるよう努力する」というものであった。そして、当初蔣介石打倒などということは毛頭考えなかったが、重慶政府米英結んでビルマにまで出兵するいたった以上、和平工作放棄する以外になく、もし重慶希望するように日本敗れるならば、中国滅亡し東アジア全体欧米植民地転落してしまうだろう述べた。彼としては、孫文における「三民主義」を脇に置いてでも、その一方主張である「大亜細亜主義」を前面掲げ白人帝国主義対抗する姿勢を示すと同時に第二次世界大戦終結する前に日中戦争解決することが肝要だ考えていたのである3月25日日本政府広東イギリス租界汪兆銘政権移管した。6月1日汪兆銘政権特使として褚民誼来日し昭和天皇拝謁した1942年6月5日ミッドウェー海戦機に日本敗勢強めていったが、汪政権もとより日本国民多く大敗真相知りえなかった。7月7日タイ王国汪兆銘南京国民政府承認している。7月28日日本銀行南京政府通貨制度混乱し危機に陥っているのを救援するため、周仏海中央儲備銀行に対して1億円の借款供与契約結んでいる。 9月1日日本政府閣議で「大東亜省」の設置決定したが、東郷茂徳外相二元外交原因なりかねないとしてこれを批判し結果として辞職した後任置かず東条首相外相兼務した。 1942年9月22日平沼騏一郎有田八郎永井柳太郎特使として南京訪れた汪兆銘は、重慶政府との和平工作はすでに限界達しており、南京政府和平地域所在する住民ですら、和平にも抗日にも倦み疲れている実情説明し南京政府強化させる手立てとして、 南京政府管掌下にある地方組織に対し日本側から頭越し直接指示するなどして治安妨害しないこと。まして、所属官吏任免日本つかさどるのは論外であり、必ず大使館通じて南京政府相談すること。 中国にとっても現下日本にとっても中国農業工業商業発達急務であり、その発達阻害するような規制束縛は、日本政府文書によって撤廃されしかるべきこと。 の2点求めた。のちに傀儡政権として断罪され汪兆銘政権であったが、日本占領地域居住する中国民衆暮らしには最大限気遣い示していたのである11月1日興亜院廃止され大東亜省正式に発足した12月25日訪日中だった汪兆銘東京総理官邸東条英機会談をもち、日本占領の上海や南京でいかに汪政権民衆から信頼されにくいかを訴え日本側の善処求めた。なお、汪はこの訪日時に大勲位菊花大綬章授与されている。 結局、汪政権枢軸国側として参戦することとなった1943年1月9日汪兆銘首班とする南京国民政府米英対し宣戦布告したそれに伴い南京中山路国民政府軍隊による米英への宣戦布告大パレードが行われた。同時に日本汪兆銘政権との間に租界還付治外法権撤廃協定を結び、米英もその直後蔣介石政権との間で不平等条約による特権放棄する新条約を結んだ。これにより中国は、中立国フランスヴィシー政権以外のあいだに結ばれていた不平等条約をすべて解消することとなった日本政府また、南京駐在ヴィシー政府代表に連絡して上海共同租界行政権南京政府還付させることに成功した汪兆銘2月2日付の訓令で、青天白日旗の上につけていた「和平 反共 建国」の三角標識を撤去するよう指示した。 なお、3月には延安拠点のあった中国共産党汪兆銘政権合作すべく秘密裏接触してきている。これは、毛沢東指示のもと劉少奇共産党員の馮竜を使者任じ上海において周仏海面会させたものであった。この合作実現しなかったが、馮竜の叔父の邵式軍(中国語版)が中央儲備銀行監事だったところから周仏海親し一方日中戦争の際には共産党ひそかにつながっており、共産党資金流していたところからこの面会は邵式軍が手配したものとみられる1943年9月9日汪兆銘信頼の厚い李子群が暗殺される事件起こっており、9月22日には汪が訪日し昭和天皇拝謁し東条首相面談している。敗色濃くなった日本は、この年8月ビルマ10月フィリピン自由インド仮政府それぞれ承認し同時に各国同盟条約結んだ汪兆銘政権とは10月30日日華同盟条約を結び、付属議定書では戦争状態終了後撤兵約束した1943年11月5日から6日まで、東京では大東亜会議開かれた汪兆銘南京国民政府代表(ただし、肩書き行政院長)としてタイビルマフィリピン満州国自由インドなど、他のアジア諸国首脳とともに出席した上述独立承認同盟条約締結措置は、ここで調印発表され大東亜宣言前提をなすものであった。なお、島本真備忘メモによると、大東亜省ならびに中華民国国民政府要請により、南京上海蘇州において中華民国滑空士指導者講習会行ったという。

※この「太平洋戦争と汪政権」の解説は、「汪兆銘」の解説の一部です。
「太平洋戦争と汪政権」を含む「汪兆銘」の記事については、「汪兆銘」の概要を参照ください。

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