中華民国滑空士指導者講習会(南京、上海、蘇州)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 02:31 UTC 版)
「島本真」の記事における「中華民国滑空士指導者講習会(南京、上海、蘇州)」の解説
島本真の備忘メモによると 「昭和18年5月27日~7月10日(1月半)当時大東亜省並びに中華民国国民政府の要請により同国、南京、上海、蘇州に於いて同国滑空機指導者講習会を開き、併せて高級滑空機による特殊飛行を行い日本滑空界の技術を知らしめる為毎日新聞社より高級滑空機ゲッピンゲン1型1機と初級滑空機3機を寄贈、毎日新聞社航空部員志鶴忠夫特級滑空士、加藤幾太郎機関士、島本真滑空士、文部省小川健爾操縦士の4名が指導にあたり連日訓練、特に同国汪精衛(汪兆銘)主席を始め各界代表列席のレセプションに島本2級滑空士の模範飛行の他志鶴忠夫滑空士の高度千メートルより宙返り4回連続等の高等飛行を披露する。講習会終了後南京~上海間の空中列車の威容をみせる。」 志鶴忠夫1級滑空士に対して中華民国国民政府国家主席(行政院長)汪精衛(汪兆銘)より感謝状が贈られたときに補佐役の指導者であった島本真2級滑空士にも同じく感謝状が国家主席より贈られた。 この時期は、5月14日にはアッツ島にアメリカ軍が上陸し、30日にはアッツ島玉砕などの悪い情報があったが、まだ空軍の上げる戦果は大本営の発表を見る限り大きく伝えられていた。法政大学留学と、日本留学の経験もあり親日家の汪精衛(汪兆銘)行政院長は、大東亜共栄圏の一翼を担っていた。王は1935年11月1日、暗殺者の銃撃を受け3発の銃弾を受けた。弾は急所を外れたが内1発の弾が取り出せず、この古傷がもとで1944年11月10日に名古屋帝国大学医学部付属病院で客死した。 中華民国国民政府主席汪兆銘要請で行われた滑空機指導者講習会 汪兆銘国家主席が滑空士指導者講習会会場に視察に来られた 協賛の毎日新聞が中華民国政府に提供した、ゲッピンゲン1型高級ソアラー 中華民国航空士官学校生への滑空士指導者講習会(中央島本) 滑空機曳行飛行機横に整列する日本よりの派遣指導者(右機体側端島本) 日本よりの滑空指導者を紹介され挨拶を受ける汪兆銘国家主席陳璧君婦人も同席 中華民国での滑空機指導者講習会の無事終了に際して掛け軸と寄せ書きを贈られた
※この「中華民国滑空士指導者講習会(南京、上海、蘇州)」の解説は、「島本真」の解説の一部です。
「中華民国滑空士指導者講習会(南京、上海、蘇州)」を含む「島本真」の記事については、「島本真」の概要を参照ください。
- 中華民国滑空士指導者講習会のページへのリンク