中華民国海軍/中国人民解放軍海軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/14 13:45 UTC 版)
「第十四号海防艦」の記事における「中華民国海軍/中国人民解放軍海軍」の解説
中華民国に引き渡し時は接5号と仮称。艦の状態が悪く上海に繋留されたままとなった。国共内戦で上海が陥落した際に本艦は人民解放軍に鹵獲された。その後ソ連製の武装を装備して護衛艦となり、武昌(Wu-Chang)(215)と命名され東海艦隊に編入された。 1954年の国共衝突では、披山や大陳海域を行動。1955年の一江山島上陸作戦では同島に対して艦砲射撃を行った。 1982年、除籍された。
※この「中華民国海軍/中国人民解放軍海軍」の解説は、「第十四号海防艦」の解説の一部です。
「中華民国海軍/中国人民解放軍海軍」を含む「第十四号海防艦」の記事については、「第十四号海防艦」の概要を参照ください。
中華民国海軍/中国人民解放軍海軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 08:04 UTC 版)
「隠岐 (海防艦)」の記事における「中華民国海軍/中国人民解放軍海軍」の解説
中華民国に引き渡し時は接18号と仮称されたが、引渡し後に固安(Gu-An)と命名され、日本海軍の武装を施して海防第一艦隊に編入された。主機の状態が悪く行動に難があったとされる。 1949年(昭和24年)2月、機関の損傷により青島港で停泊中、中国人民解放軍が青島に入城し鹵獲された。その後機雷敷設艦に改造されソ連製の10cm砲3門、37mm機銃3門と機雷40個を装備し、長白(Chang-Pai)(艦番号230)と命名された。 1955年(昭和30年)、南海艦隊に編入され中国東南部沿岸への機雷敷設に従事した。1982年(昭和57年)、除籍された。
※この「中華民国海軍/中国人民解放軍海軍」の解説は、「隠岐 (海防艦)」の解説の一部です。
「中華民国海軍/中国人民解放軍海軍」を含む「隠岐 (海防艦)」の記事については、「隠岐 (海防艦)」の概要を参照ください。
中華民国海軍/中国人民解放軍海軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/11 14:51 UTC 版)
「四阪 (海防艦)」の記事における「中華民国海軍/中国人民解放軍海軍」の解説
四阪は中華民国海軍において恵安と正式に命名された。恵安は日本海軍の45口径十年式12cm高角砲2門、仮称五式40mm機関砲2門、九六式25mm連装機銃4基8門を装備して再武装化され、海防第二艦隊(司令:林遵)に編入され、旗艦となった。 共産党軍が揚子江に迫った1949年初頭、国民党軍は共産党軍の渡江を防ぐために海防第二艦隊を中心に多数の艦艇を南京周辺に集めていたが、その殆どが日本からの賠償艦艇を再武装したものや終戦時に接収した日本の河川用艦艇、米国から引き渡された幾つかの砲艦であった。 4月21日、共産党軍は揚子江の渡江作戦を開始し、その日のうちに江陰要塞をはじめとする江岸各地の要塞や陣地が次々と寝返ったため、南京周辺の艦艇は封鎖されることになった。 23日、林遵司令は各艦艇を燕子磯付近に集結させた上で主要な艦艇長16人を集めて状況を説明し、話し合いの末投票で投降か脱出を決めることになった。結果は投降8票、脱出2票、棄権6票であり投降が決まったが投降したくない艦艇には脱出を認めた。信陽(旧初梅)、営口(旧67号海防艦)、威海(旧194号海防艦)、武陵(旧白埼)、逸仙などは脱出を選択し、中共軍の砲火のなかを脱出していった。林遵司令は脱出する艦艇を見送った後に以下25隻の艦艇とともに投降した。この日、投降した国民党軍第二艦隊を主戦力として中国人民解放海軍の創立が宣言された。 4月28日、投降した第二艦隊艦艇のうち恵安と吉安(旧85号海防艦)は燕子磯において国民党軍のB24爆撃機の爆撃で沈没した。 1953年12月24日、中国人民解放軍は恵安を浮揚して上海で修理、改装を行い1955年にそのままの艦名で就役させた。その後大改造を行いソ連製のB-34 100mm単装両用砲2門、V-11 M 37mm連装機銃6基12門、2M-3 25mm連装機銃3基6門を装備、上海および寧波を根拠地とする東海艦隊に編入、恵安の艦名のまま護衛艦として就役し艦番号218を与えられた。1961年には1954年の一江山島戦役で戦没した特設砲艦の瑞金の名を引き継いだ。毛沢東時代の中国海軍は魚雷艇や潜水艦を主戦力とする沿岸海軍を指向した(外洋海軍の建設を主張した彭徳懐が失脚したので)ため、水上艦艇の更新が進まず、日本製の海防艦が長らく使用された。鄧小平政権になると中国海軍は外洋海軍に方向転換し、旅大型駆逐艦や江滬型フリゲートなどの自国製の艦艇を次々と就役させた。1982年に他の日本製海防艦が一斉に退役する中、瑞金のみは中国海軍は人材育成のための練習用艦艇が不足していたために練習艦となり、同国海軍唯一の練習艦となった。1990年に後継の練習艦鄭和が就役したため退役。退役時の時点では数ある中国海軍艦艇の中でも最古参であり、民間に払い下げられていた巡洋艦重慶を別にすれば1949年4月23日の中国人民解放海軍創設以来の唯一の生き残りであった。 第二次世界大戦に参加した大日本帝国海軍艦艇の最後の生き残りとしては、現存唯一の旧海軍艦船である特務艦宗谷や1996年まで現存していた海防艦志賀があるが、現役の海軍艦艇として使用されたのは本艦が最後である。また、第二次世界大戦に参加した日本商船で、現役の商船として使用されたのは第二号新興丸(東亜海運、2,577トン/1992年船籍抹消)、逓信省平時E型標準貨物船の久津丸(大阪商船、838トン/1992年船籍抹消)が最後である。四阪の艦名は海上自衛隊の掃海艇しさかに受け継がれた。
※この「中華民国海軍/中国人民解放軍海軍」の解説は、「四阪 (海防艦)」の解説の一部です。
「中華民国海軍/中国人民解放軍海軍」を含む「四阪 (海防艦)」の記事については、「四阪 (海防艦)」の概要を参照ください。
- 中華民国海軍/中国人民解放軍海軍のページへのリンク