太平洋戦争における戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 02:57 UTC 版)
「山城 (戦艦)」の記事における「太平洋戦争における戦績」の解説
太平洋戦争初期〜中期は、扶桑型戦艦のほか日本海軍の戦艦のほとんどは内地にあった。山城と扶桑は1942年(昭和17年)6月のミッドウェー海戦に戦艦大和以下主力部隊として出撃するが、戦闘には参加しなかった。そのミッドウェーで失った空母戦力穴埋めの為に全ての戦艦を航空母艦へ改造する事が検討された際に扶桑型は伊勢型と共に最終候補となっていたが、結局これは伊勢型戦艦2隻の改造となり実現しなかった。その後も内地で待機の任務が続き、砲術学校の練習艦として使用されていた。「艦内は隅々まで手入れが行き届き光り輝いていた」という見学した横須賀海軍砲術学校生徒の回想があるが、その一方で『鬼の山城・蛇の長門』と畏れられる艦でもあった。1943年10月には航空戦艦伊勢と共に『甲支隊T3号輸送部隊』として輸送任務を行った。帰路は空母隼鷹と行動を共にした。11月9日、伊予灘で魚雷発射訓練中の呂113と接触事故を起こすも、損害は軽微で済んだ。1944年(昭和19年)になると、扶桑はトラック泊地に進出して大和や武蔵と共に待機し、その後渾作戦等に従事したが、山城は内地待機が続いた。6月、日本海軍はマリアナ沖海戦で大敗、サイパン島陥落により絶対国防圏は崩れた。日本海軍は6月15日〜29日にかけて東号作戦を発動、マリアナ諸島のアメリカ軍に対し、日本本土の航空兵力を多数投入していた。この状況下、神重徳連合艦隊参謀は山城(もしくは扶桑)と第五艦隊(巡洋艦那智、足柄、多磨、木曾、阿武隈等)によるサイパン島突入作戦を発案、海軍陸戦隊をサイパンへ強行輸送しつつ、艦隊は浮き砲台となって陸上砲撃をおこなう計画を提案する。神は山城艦長となって自ら陣頭に立つことを希望した。第五艦隊は北方より内地に戻り作戦準備を行うも、作戦は中止された。
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