ツラギ攻略
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1942年(昭和17年)4月30日、ツラギ攻略部隊の第十九戦隊(司令官志摩清英少将、旗艦:敷設艦沖島)がラバウルを出発した。5月3日、第十九戦隊は軽空母祥鳳と特設水上機母艦神川丸艦載機支援のもとフロリダ諸島(ツラギ島、ガブツ島、タナンボコ島)に上陸したが、連合国軍は殆ど撤収しており、小競り合いが起きた程度で日本軍の上陸作戦は成功した。日本軍は水上機基地の設営を開始、同日夕方までに設営を完了した。MO作戦第一段階完了にともない、第十八戦隊(司令官丸茂邦則少将、軽巡洋艦天龍、龍田)、五藤少将の第六戦隊は次々に反転、ブカ島クインカロラで補給の後、南海支隊と合流することになっていた。 MO機動部隊は5月1日、トラック諸島を出航した。同日には第四艦隊旗艦鹿島と座乗した井上ら第四艦隊司令部がトラック諸島からラバウルへ向かった。機動部隊司令官は高木武雄少将で、原忠一少将は第五航空戦隊司令官として高木の指揮下にある。第五航空戦隊の航空戦力は空母1隻につき零式艦上戦闘機18、九九式艦上爆撃機18、九七式艦上攻撃機18、第五戦隊(妙高、羽黒)は各艦零式水上偵察機1機、九五式水上偵察機2機を搭載している。MO機動部隊はラバウルに第二十五航空戦隊の零戦9機を輸送するため寄り道したが、悪天候により2度にわたり引き返したため、5月3日に輸送の中止を決定した。 MO攻略部隊には軽空母祥鳳(零式艦上戦闘機10→5/2事故で9機、九六式艦上戦闘機4、九七式艦上攻撃機6)が護衛についていたが、作戦会議で公然と反対した杉山利一(祥鳳飛行長)のように多くの者が軽空母1隻の護衛には限界があると感じていた。もっとも、日本軍は空母レキシントンを既に撃沈したか本国修理中であると推定しており、仮に珊瑚海に米空母が出現するとしても空母サラトガ1隻と判断している。鹿島に座乗した井上ら第四艦隊司令部は4日にラバウルへ到着した。以後井上はラバウルの鹿島艦上からMO攻略部隊・MO機動部隊・援護部隊・ポートモレスビー攻略部隊を指揮した。
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