第四艦隊旗艦(太平洋戦争開戦前)
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11月15日附の艦隊改編で第四艦隊(司令官高須四郎中将)は拡充され、新造艦で士官居住区等の充実した香取型の鹿島は第四艦隊旗艦となった。第十八戦隊(鹿島、軽巡天龍、龍田)に所属し、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}鹿島は同戦隊の旗艦も兼ねた[要出典]。 1941年(昭和16年)2月上旬、高知沖で行われた大規模演習に参加。2月3日、鹿島は仮想敵(陸奥型戦艦)として戦艦比叡の砲撃目標になるが、比叡は潜水母艦大鯨を鹿島と錯覚して射撃目標にしていた。2月から4月、第四艦隊と共に南洋で行動した。 5月25日、高須中将と高松宮軍令部員が乗艦した鹿島は横須賀を出港して内南洋へ向かった。5月30日、空母龍驤、駆逐艦帆風と行動。6月1日にマーシャル諸島エニウェトク環礁に到着した。それ以降、第四艦隊各艦と共に南洋で行動した。 7月22日、第四艦隊の鹿島、軽巡夕張、駆逐艦朝凪を除く各艦は内地に戻り、整備に従事した。8月11日、高須中将は第一艦隊司令長官へ転出し、後任の第四艦隊司令長官は海軍航空本部部長だった井上成美中将となった。10月中旬から下旬にかけて、第四艦隊各艦はトラック泊地に集結した。 11月18日、対米開戦について日本本土での協議に参加した井上中将ら第四艦隊司令部はサイパン停泊中の鹿島に帰艦し、鹿島は20日トラック泊地へ戻った。12月1日、第四艦隊司令部が独立し、鹿島は第十八戦隊を離れて単独旗艦となった。
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第四艦隊旗艦(開戦後)
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鹿島は1943年(昭和18年)11月まで第四艦隊旗艦を務め、第四艦隊司令長官は鹿島艦上から南洋部隊・内南洋部隊の重要な作戦を指揮した。ただ開戦直前に単独旗艦に変更されたのは、兵装と速力(計画18ノット)の不足から、僚艦と行動しない後方からの作戦支援による運用を前提としていた。このため鹿島が前線で重要な海戦に参加する機会はなかった(艦隊編制は第四艦隊(三代目)参照)。 鹿島は太平洋戦争開戦をトラック泊地で迎え、井上中将が中部太平洋・南太平洋の作戦を統括する「南洋部隊」の指揮を執った。開戦時の南洋部隊は第四艦隊のほか第六戦隊(重巡青葉、加古、 衣笠、古鷹)、駆逐艦朧、第23駆逐隊(菊月、卯月、夕月)も指揮下にあった。開戦後、南洋部隊は ギルバート諸島を占領し、ウェーク島を攻略 (ウェーク島の戦い)。1942年(昭和17年)1月には第一航空艦隊と協力してラバウルを占領したが、鹿島は待機が続いた。 2月20日、空母レキシントンを基幹とする米機動部隊(第11任務部隊)がラバウル攻撃のためラバウル東方沖に進出した。井上中将は航空兵力に攻撃を命じ、水上攻撃のため鹿島、敷設艦沖島、第六戦隊、第十八戦隊(天龍、龍田)でトラック泊地を出撃した。21日、第六水雷戦隊(夕張)と第23駆逐隊が合流し、第六戦隊、第十八戦隊と合わせて支援部隊を編制した。22日には空母祥鳳、帆風も合流した。だが米機動部隊が20日に航空隊の攻撃を受け撤退していたため(ニューギニア沖海戦)、鹿島は戦闘を行わずトラック泊地に戻った。 5月1日、鹿島はポートモレスビー攻略作戦に備えてトラック泊地を出発。ラバウルに移動し、井上中将がラバウルに在泊する鹿島から攻略作戦を指揮した。しかし珊瑚海海戦で菊月と祥鳳が沈没、翔鶴が損傷し、作戦の延期が決まったため、鹿島は5月16日にトラック泊地に戻った。6月下旬、南洋部隊はガダルカナル島で飛行場の建設を開始した。 7月、ミッドウェー海戦後の艦隊再編制で誕生した第八艦隊が、南太平洋のパプアニューギニア、ソロモン諸島方面の重要な作戦を担当することになった。このため第四艦隊から第十八戦隊、第30駆逐隊、敷設艦津軽等が第八艦隊の指揮下に移り、第八艦隊に第六戦隊も加わって「外南洋部隊」が編制された。第四艦隊は中部太平洋を管轄する「内南洋部隊」となり、旗艦鹿島、日本と中部太平洋を結ぶ航路の安全を確保する 第二海上護衛隊の他は、根拠地隊を中心とする艦隊編制に縮小された(第四艦隊(三代目)参照)。その結果、鹿島は直後に激戦となるソロモン諸島の戦いの前戦から外れた。 その後、呉に戻って機銃増設等の改修工事を行い、9月にトラック泊地に戻った。10月26日、第四艦隊司令長官は鮫島具重中将となった。11月から12月にかけて海軍陸戦隊をクェゼリン環礁、ナウル島、ヤルート島に輸送、その後は待機が続いた。1943年(昭和18年)4月1日、第四艦隊司令長官は小林仁中将となった。同日附で第四艦隊に第十四戦隊(軽巡那珂、五十鈴)が編入した。 4月、駆逐艦初風に護衛されて内地へ向かい修理を受けた。5月、空母冲鷹、雲鷹、駆逐艦海風、潮、測量艦筑紫と共にトラックに戻った。8月、駆逐艦涼月に護衛されてクェゼリン環礁に移動、根拠地を移した。11月にトラック泊地に戻り、10日附で第四艦隊旗艦を軽巡長良に譲った。 11月18日、潜水母艦長鯨、特設巡洋艦護国丸、駆逐艦若月と共にトラック泊地を離れ、駆逐艦山雲が護衛した。11月19日、山雲は米潜水艦スカルピンを撃沈し、トラック泊地に戻った。11月25日、鹿島は呉に到着した。米軍は11月21日にギルバート諸島に上陸を開始し、中部太平洋で本格的な反抗を始めた(ギルバート・マーシャル諸島の戦い)が、鹿島はその直前にトラック泊地を離れた。
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