少尉候補者制度
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1920年(大正9年)8月、陸軍は現役将校の補充教育体系を刷新した。陸軍中央幼年学校予科と陸軍地方幼年学校を陸軍幼年学校、陸軍中央幼年学校本科を陸軍士官学校予科とし、陸軍士官学校は予科・本科制となった。このとき陸軍補充令中改正(勅令第244号)で第3条に「歩、騎、砲、工、輜重兵科現役士官ハ士官候補生、現役特務曹長又ハ現役砲、工兵上等工長ニシテ少尉ニ任セラルルノ資格ヲ具フル者ヲ以テ之ヲ補充ス」と現役士官へ任用できる者として士官候補生だけなく、現役特務曹長と砲兵科または工兵科の上等工長も併記されるようになった、これに基づくのが少尉候補者制度であり、平時であっても准士官から直に現役少尉への道が開けた。少尉候補者の詳細は次のとおり(1920年8月時点)。 各兵科(憲兵科を除く) 改正陸軍補充令第14条の第2項で少尉候補者は実役停年2年以上の現役特務曹長のうち「身体強健人格成績共ニ優秀且家庭良好ナル者」から連隊長などに選抜されたうえ試験によって陸軍大臣が定めると規定され、「市谷台」と通称される東京市牛込区本村町の陸軍士官学校に生徒とは別課程の学生として入校する。 砲兵科および工兵科の技術従事者 砲兵科と工兵科の准士官には特務曹長以外にも技術従事者として砲兵上等工長および工兵上等工長があった。上記の各兵科特務曹長と同様の条件を満たし、選抜され試験に合格した上等工長は東京市小石川区小石川町の陸軍砲兵工科学校を改称した陸軍工科学校へ高等科学生として入校する。 憲兵科 憲兵科現役将校は士官候補生からではなく他兵科の将校を転科させることで補充していたが、今回の改正で「憲兵科現役士官ハ他兵科ノ士官ニシテ憲兵練習所ヲ卒業シタル者又ハ憲兵科現役特務曹長ニシテ少尉ニ任セラルルノ資格ヲ具フル者ヲ以テ之ヲ補充ス」と選抜のうえ試験に合格した現役憲兵特務曹長を憲兵少尉候補者として東京府豊多摩郡中野町の憲兵練習所で教育し、少尉に任官することも可能となった。 兵科以外の各部では少尉という階級が当時は存在せず狭義においては少尉候補者ではないが、経理部では古くから軍吏部(経理部の前身)の下士官または兵科の准士官・下士官を陸軍経理学校の学生として教育し、現役三等軍吏(少尉相当官)とする補充制度が存在した。しかし明治時代後期になり制度変更により廃止されていたものが、前述した1920年8月の陸軍補充令中改正により三等主計候補者という名称とともに復活することになった。三等主計候補者は兵科の少尉候補者と同様に「身体強健人格成績共ニ優秀且家庭良好ナル」各兵科(憲兵科を除く)准士官・曹長と経理部の上等計手・上等縫工長・上等靴工長、または一等計手・一等縫工長・一等靴工長の志願者の中より連隊長などに選抜されたうえ試験に合格した者が陸軍経理学校の普通科学生として教育され、卒業すると士官勤務を習得したのち三等主計に任官できることになった。 衛生部では1922年(大正11年)3月末の陸軍補充令中改正(勅令第181号)施行により、実役停年2年以上の現役上等看護長のうち、所管軍医部長などに選抜されたうえ試験に合格した者が三等看護官候補者として陸軍軍医学校で教育されたのち、衛戍病院で士官勤務を習得し三等看護官に任官すると定められた。獣医部では1923年(大正12年)4月施行の陸軍補充令中改正(勅令第89号)により、現役の上等蹄鉄工長のうち所管獣医部長に選抜されたうえ試験に合格した者が三等獣医候補者となり、実業学校令による陸軍部外の獣医学校で陸軍獣医部派遣学生として課程を卒業し、騎兵・砲兵・輜重兵のいずれかの部隊で士官勤務を習得し三等獣医に任官すると定められた。 1924年(大正13年)5月、陸軍補充令改正(勅令第118号)により少尉候補者は現役の特務曹長(または上等工長)のほかに曹長(または一等工長)と「実役停年二年以上ノ者ニシテ飛行機操縦術ヲ習得シタル」軍曹にまで有資格者の範囲が広がった。陸軍では翌1925年(大正14年)に航空兵科が独立することになっていた。 1927年(昭和2年)12月に施行された陸軍補充令改正(勅令第331号)では憲兵科を含む各兵科の少尉候補者は38歳未満の現役特務曹長、曹長(砲兵科および工兵科は上等工長、一等工長を含む)と、航空兵科の「飛行機操縦術ヲ習得シタル」実役停年2年以上の軍曹のうち「身体強健、人格成績共ニシ優秀且家庭良好ナル者ニシテ連隊長ニ於テ選抜シタル者」の中から試験によって決定されるように年齢の上限が定められた。
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