少尉任官まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 00:16 UTC 版)
福岡県に生まれる(ただし、本籍は東京都)。父は門司で鉄工所経営の新海元であり、陸軍士官学校55期の新海敬は弟(四男)である。東京陸軍幼年学校に1番の成績で合格した。入校式では答辞を読んだ。入校当時の生徒監は後に硫黄島の戦いで戦死する千田貞季大尉で、新海の優れた天稟を見抜き、愛した。新海もまた千田を尊敬した。半年後に生徒監が丸山房安に交代した。丸山は新海を将校生徒としてさっぱり評価しなかった。新海の動作の緩慢さは人並みはずれていたうえ、怒鳴りつけられてもニヤニヤ笑うだけで、可愛げの欠片もなかったためである。手に負えないと判断した丸山は、新海の父を呼びつけ、自発的に退校を言い出させようとした。しかし、それを察した父の元は、「入校したときあんたのところの校長さんは、希典は実に立派な所感文を書いたと口を極めて褒めてくださったんだが、それが2年やそこらでおかしくなるというのは、幼年学校はひとりの人間の教育もできないのですか」と激しく反論した。思わぬ反撃を受けた丸山は黙り込んでしまい、話し合いはそのまま物別れとなった。この話は教育総監部までいき、父親の言はもっともだという事で、新海の退校はなくなった。 陸軍士官学校予科の区隊長は片岡太郎中尉であった。非常に人柄の良い、いかにも教育者らしい人物で、候補生に人気があった。新海も片岡を崇敬し、彼の家に足繁く通っていた。しかし、1934年(昭和9年)11月以降、学校から片岡の姿は消え、中山忠雄中尉が区助となった。 予科を卒業し、飛行第4連隊での隊附を終えた新海は、陸軍士官学校所沢分校に入校した。区隊長は俊英田中耕二中尉であった。田中はジュリオ・ドゥーエの爆撃万能論に傾倒しており、新海もまた彼の強い影響を受け、重爆撃機を志した。
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