少将への昇進とドイツ留学とは? わかりやすく解説

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少将への昇進とドイツ留学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 19:20 UTC 版)

乃木希典」の記事における「少将への昇進とドイツ留学」の解説

明治12年1879年12月20日正六位叙され翌年4月29日大佐へと昇進し6月8日には従五位叙された。 明治16年1883年2月5日東京鎮台参謀長任じられ明治17年1885年5月21日には最年少少将昇進し歩兵第11旅団長に任じられた。7月25日には正五位叙された。 この間長男・勝典(明治12年1879年8月28日生)および次男・保典(明治14年1881年12月16日生)がそれぞれ誕生している。 明治20年1887年1月から明治21年1888年6月10日まで、乃木政府命令によって、同じく陸軍少将川上操六とともにドイツ帝国留学した乃木は、ドイツ軍参謀総長モルトケから紹介され参謀大尉デュフェーについて、後に第3軍参謀長になる伊地知幸介中尉による通訳介し野外要務令』に基づく講義受けた次いで乃木は、ベルリン近郊近衛軍属してドイツ陸軍全貌について学んだドイツ留学中乃木軍医として同じく留学中森林太郎とも親交深め、その交友関係以後長く続いた帰国後、乃木復命書陸軍大臣大山巌提出した。この復命書は、形式上川上乃木連名であったが、川上帰国後に病に伏したため筆を執れず、そのほとんどを乃木単独書いたその内容は、軍紀確保厳正な軍紀維持するための綱紀粛正軍人教育重要性説き軍人徳義本分すべきであることや、軍服着用重要性についても記述されていた。 その後乃木は、復命書通り記述体現するかのように振る舞うようになった留学前には足繁く通っていた料理茶屋料亭には赴かないようになり、芸妓が出る宴会には絶対に出席せず、生活をとことん質素に徹した平素は稗を食し来客時には蕎麦を「御馳走と言って振る舞ったまた、いついかなる時も乱れなく軍服着用するようになったこうした乃木変化について、文芸評論家福田和也は、西南戦争軍旗喪失して以来厭世家となった乃木が、空論とも言うべき理想軍人像を体現することに生きる意味を見いだした分析している。一方乃木に関する著書もある作家松田十刻は、上記の「復命書」で軍紀綱紀粛正諫言した以上、自らが模範となるべく振舞ねばならない考えて結果という分析をしている。 乃木第11旅団熊本)に帰任した後、近衛歩兵第2旅団長(東京)を経て歩兵第5旅団長(名古屋となった。しかし、上司である第3師団長・桂太郎とそりが合わず明治25年1892年)、病気理由2度目休職入った休職中の乃木は、栃木県那須野購入した土地(現・同県那須塩原市石林、後の那須乃木神社)で農業勤しんだ。これより後、乃木休職するたびに那須野農業従事したが、その姿は「農人乃木と言われた。

※この「少将への昇進とドイツ留学」の解説は、「乃木希典」の解説の一部です。
「少将への昇進とドイツ留学」を含む「乃木希典」の記事については、「乃木希典」の概要を参照ください。

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