少将への昇進とドイツ留学
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「乃木希典」の記事における「少将への昇進とドイツ留学」の解説
明治12年(1879年)12月20日に正六位に叙され、翌年4月29日に大佐へと昇進し、6月8日には従五位に叙された。 明治16年(1883年)2月5日に東京鎮台参謀長に任じられ、明治17年(1885年)5月21日には最年少で少将に昇進し、歩兵第11旅団長に任じられた。7月25日には正五位に叙された。 この間、長男・勝典(明治12年(1879年)8月28日生)および次男・保典(明治14年(1881年)12月16日生)がそれぞれ誕生している。 明治20年(1887年)1月から明治21年(1888年)6月10日まで、乃木は政府の命令によって、同じく陸軍少将の川上操六とともにドイツ帝国へ留学した。乃木は、ドイツ軍参謀総長モルトケから紹介された参謀大尉デュフェーについて、後に第3軍参謀長になる伊地知幸介中尉による通訳を介し『野外要務令』に基づく講義を受けた。次いで乃木は、ベルリン近郊の近衛軍に属して、ドイツ陸軍の全貌について学んだ。ドイツ留学中、乃木は軍医として同じく留学中の森林太郎とも親交を深め、その交友関係は以後、長く続いた。 帰国後、乃木は復命書を陸軍大臣・大山巌に提出した。この復命書は、形式上、川上と乃木の連名であったが、川上は帰国後に病に伏したため筆を執れず、そのほとんどを乃木が単独で書いた。その内容は、軍紀の確保と厳正な軍紀を維持するための綱紀粛正・軍人教育の重要性を説き、軍人は徳義を本分とすべきであることや、軍服着用の重要性についても記述されていた。 その後の乃木は、復命書通りの記述を体現するかのように振る舞うようになった。留学前には足繁く通っていた料理茶屋・料亭には赴かないようになり、芸妓が出る宴会には絶対に出席せず、生活をとことん質素に徹した。平素は稗を食し、来客時には蕎麦を「御馳走」と言って振る舞った。また、いついかなる時も乱れなく軍服を着用するようになった。 こうした乃木の変化について、文芸評論家の福田和也は、西南戦争で軍旗を喪失して以来厭世家となった乃木が、空論とも言うべき理想の軍人像を体現することに生きる意味を見いだしたと分析している。一方、乃木に関する著書もある作家の松田十刻は、上記の「復命書」で軍紀の綱紀粛正を諫言した以上、自らが模範となるべく振舞わねばならないと考えての結果という分析をしている。 乃木は第11旅団(熊本)に帰任した後、近衛歩兵第2旅団長(東京)を経て、歩兵第5旅団長(名古屋)となった。しかし、上司である第3師団長・桂太郎とそりが合わず、明治25年(1892年)、病気を理由に2度目の休職に入った。休職中の乃木は、栃木県の那須野に購入した土地(現・同県那須塩原市石林、後の那須乃木神社)で農業に勤しんだ。これより後、乃木は休職するたびに那須野で農業に従事したが、その姿は「農人乃木」と言われた。
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