太平洋戦争中期以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 09:58 UTC 版)
「夕霧 (吹雪型駆逐艦)」の記事における「太平洋戦争中期以降」の解説
1943年(昭和18年)1月16日、神通は第二水雷戦隊に、夕霧は第八艦隊に、それぞれ編入された。1月25日、夕霧は呉を出発する。1月下旬より、外南洋部隊によるケ号作戦(ガダルカナル島撤収作戦)に参加した。ただし2月1日実施の第一次撤収作戦では、エスペラント隊・カミンボ隊の双方に夕霧は含まれていない。同時期、ショートランド泊地は断続的にB-17の空襲を受けており、2月1日には特設水上機母艦「神川丸」が小破した。2月2日、B-17と小型機の空襲で被弾した特設航空機運搬艦「慶洋丸」が火災をおこした。夕霧と敷設艦津軽は慶洋丸の救援に従事した。 第二次撤収作戦では、「巻波」艦長・人見豊治中佐指揮下の付属隊(巻波、夕霧)としてショートランド泊地で待機した。第三次撤収作戦では、外南洋部隊の兵力部署に夕霧は記載されていない。 ケ号作戦成功後、第三水雷戦隊司令官は橋本信太郎少将から木村昌福少将に交代、木村少将は2月14日ラバウルに到着した。またケ号作戦のため派遣されていた部隊や艦艇は原隊に復帰した。このうち第24駆逐隊の駆逐艦「江風」は、陸軍輸送船4隻のショートランド~ラバウル回航を護衛中の2月9日夜、「東運丸」と衝突した。「夕霧」と水雷艇「鴻」は「江風」救難を命じられた。「江風」は「夕霧」に護衛されてショートランド泊地に引き返し、応急修理をおこなった。11日、「江風」は駆逐艦「黒潮」に曳航されてショートランドを出発、ラバウルに向かった。 2月25日、「天霧」と「夕霧」は第11駆逐隊に編入され、この時点で11駆は定数4隻(白雪、初雪、天霧、夕霧)を回復した。夕霧はソロモン諸島での輸送任務に従事した。 3月3日、第11駆逐隊の駆逐艦「白雪」が沈没した(ビスマルク海海戦)。白雪が沈没する際に木村少将は重傷を負い、後任の三水戦司令官は江戸兵太郎少将となった。「白雪」は4月1日付で第11駆逐隊から除籍され、11駆は3隻(初雪、天霧、夕霧)となる。また戦時編制の改定により第一水雷戦隊と第三水雷戦隊は第一艦隊から除かれ、三水戦は制式に第八艦隊隷下となった。第八艦隊司令長官も三川軍一中将から鮫島具重中将に交代した。外南洋部隊の駆逐艦や小型艦艇は中部ソロモン方面(ニュージョージア諸島)や東部ニューギニア方面への輸送作戦に奔走した。 4月下旬より、外南洋部隊の駆逐艦3隻(天霧、夕霧、望月)はサンタイサベル島レカタ基地への輸送を複数回実施した。5月8日には、コロンバンガラ島輸送従事中の第15駆逐隊(親潮、黒潮、陽炎)が機雷によって全滅する惨事も起きた。5月16日、ムッソウ島沖(カビエン北西12浬)で夕霧は米潜水艦「グレイバック」の雷撃を受け、艦首部切断の損傷を受ける。戦死者9名。「夕霧」は「天霧」に曳航され、ラバウルに移動した。7月上旬より、トラック泊地で応急修理をおこなった。 この間、第11駆逐隊司令は杉野修一大佐から山代勝守大佐に交代した。また7月6日のクラ湾夜戦で第三水雷戦隊旗艦「新月」が沈没し、三水戦司令官・秋山輝男少将が戦死した。重巡洋艦「鳥海」艦長・有賀幸作大佐が臨時の増援部隊指揮官となったあと、7月10日付で伊集院松治大佐が第三水雷戦隊司令官(増援部隊指揮官)に任命された。7月中旬、第11駆逐隊の駆逐艦初雪がショートランド泊地で空襲を受けて沈没し、10月15日付で除籍された。健在の第11駆逐隊所属艦は天霧のみという状態だった。 7月24日、「夕霧」と択捉型海防艦「隠岐」は輸送船団を護衛してトラック泊地を出発する。8月1日、「夕霧」と「隠岐」は横須賀に到着した。「夕霧」は8月5日に横須賀を出発、8月7日呉に到着した。呉海軍工廠で修理をおこなう。11月9日、呉を出撃した。13日にサイパン島到着。翌日出発し、15日トラック泊地到着。翌日出発し、18日ラバウルに到着した。さっそく第三水雷戦隊所属各艦で合同訓練を行ったあと、夕霧はブカ島輸送に従事した。 詳細は「セント・ジョージ岬沖海戦」を参照 11月21日、第31駆逐隊司令・香川清登大佐を指揮官とする第一次ブカ島輸送作戦が実施された。作戦は警戒隊(大波、巻波)、輸送隊(第11駆逐隊〈天霧、夕霧〉、第30駆逐隊〈卯月〉)の駆逐艦5隻で行われた。同日13時30分にラバウルを出撃し、夜間にブカ島へ到着する。22日朝、ラバウルに帰投した。 11月24日、第一次と同じ編成で、第二次ブカ島輸送が行われる。輸送成功後の帰途、日本軍輸送部隊はセント・ジョージ岬沖でアーレイ・バーク大佐指揮下の米駆逐艦5隻に襲撃され、夜間水上戦闘になる。最初に警戒隊の「大波」と「巻波」が被雷・被弾して沈没した。「夕霧」は魚雷9本を発射したが命中せず(夕霧側は駆逐艦1隻撃沈と記録)、集中砲火を浴びて25日午前1時30分ころ沈没した。 アメリカ側記録によれば、バーク隊は警戒隊(大波、巻波)を葬ったあと北方へ退避する「敵艦3隻」をレーダーで探知、追跡して「最大に見えた艦」を捕捉すると砲撃により撃沈した。これが「夕霧」であった。南東方面部隊指揮官・草鹿任一中将は伊177潜水艦と伊181潜水艦に遭難艦の救助を命じる。伊177は夕霧乗員と便乗者計278名を救助した。伊181は遭難者11名を救助した。ブーゲンビル島やブカ島に対する駆逐艦輸送はこの敗戦をもって打ち切られ、あとは小舟艇や潜水艦輸送に頼らざるを得なくなった。 12月15日、第11駆逐隊は解隊された。同日付で、夕霧は帝国駆逐艦籍、初雪型駆逐艦から除籍された。
※この「太平洋戦争中期以降」の解説は、「夕霧 (吹雪型駆逐艦)」の解説の一部です。
「太平洋戦争中期以降」を含む「夕霧 (吹雪型駆逐艦)」の記事については、「夕霧 (吹雪型駆逐艦)」の概要を参照ください。
- 太平洋戦争中期以降のページへのリンク