太平洋戦争中盤以降の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/24 20:48 UTC 版)
「朝雲 (駆逐艦)」の記事における「太平洋戦争中盤以降の戦い」の解説
4月13日「朝雲」は横須賀に帰投し、第5艦隊第1水雷戦隊に編入される。5月21日にアッツ島に向かうが、予定を変更し幌筵島方面の掃海に従事した。7月29日、キスカ島撤退作戦に加わり、以降10月末まで千島方面海域で対潜哨戒、船団護衛に当たった。9月1日、第9駆逐隊に満潮型「霞」が編入されて4隻編制(朝雲、霞、白雲、薄雲)となる。 10月31日、「朝雲」は第9駆逐隊から除かれ、第3艦隊・十戦隊の第10駆逐隊に編入された。ミッドウェー海戦時の第10駆逐隊は「夕雲」、「巻雲」、「風雲」、「秋雲」の4隻編制だったが、「夕雲」「巻雲」を喪失して「風雲」「秋雲」の2隻となっており、「朝雲」の編入で3隻編制となった。「朝雲」は横須賀で整備を行った後、内地からリンガ泊地間を第1航空戦隊、戦艦「大和」などを護衛し、1944年(昭和19年)3月15日にリンガ泊地に到着した。第10駆逐隊は輸送船団護衛や空母「大鳳」の発着艦訓練等に従事。4月11日、駆逐艦「秋雲」が米潜水艦レッドフィンの雷撃で撃沈され、同隊は「風雲」「朝雲」の2隻となってしまった。5月30日以降、第10駆逐隊(風雲・朝雲)は戦艦「扶桑」の護衛として渾作戦に参加した。6月8日、第10駆逐隊司令艦「風雲」が米潜水艦ヘイクの雷撃で撃沈されて駆逐隊司令赤沢次寿雄大佐が戦死、「朝雲」は乗組員の救助を行った。また駆逐艦「響」、「秋霜」も風雲乗組員救助のために派遣されている。6月下旬のマリアナ沖海戦には機動部隊本隊に加わり、24日柱島泊地に帰投した。7月10日、第10駆逐隊は解隊されて「朝雲」は第4駆逐隊(野分、満潮、山雲)に編入、同隊は定数4隻を回復した。「山雲」は開戦時の第9駆逐隊所属艦である。 10月中旬以降の捷号作戦で第4駆逐隊(満潮、朝雲、山雲、野分)は分散配備され、「野分」のみ栗田艦隊・第十戦隊旗艦「矢矧」及び第17駆逐隊(浦風、浜風、雪風、磯風)と行動を共にする。第4駆逐隊3隻(満潮/司令艦、朝雲、山雲)は戦艦「山城」「扶桑」、重巡洋艦「最上」、駆逐艦「時雨」と共に第一遊撃部隊第三部隊(西村艦隊)に所属してレイテ湾突入を目指した。10月25日、西村艦隊はスリガオ海峡に突入したものの「時雨」を残して全隻撃沈された。「満潮」「山雲」に続く三番手に位置していた「朝雲」は、米軍駆逐艦マクダーマット(英語版)の魚雷攻撃により艦首を喪失、低速で反転離脱を開始する。午前4時頃、撤退中の重巡「最上」(大破炎上中)に追い抜かれた。だが2隻は追撃してきた米艦隊の砲撃を受け、砲雷撃を受けた「朝雲」は炎上。「最上」は米艦隊をふりきったものの、「朝雲」は軽巡洋艦デンバー、コロンビアの2隻にとどめを刺された。総員退去後、「朝雲」は米巡洋艦及び駆逐隊の集中射撃を受けて沈没した。さらに米駆逐艦は「朝雲」から脱出した内火艇も撃沈、乗組員は漂着して捕虜となった。約200名が戦死し、また生存者25名がマニラ地区地上部隊に編入されたという記録が残っている。なお栗田艦隊に所属していた「野分」も重巡「筑摩」救援中に撃沈され、第4駆逐隊所属艦は1日で全隻を喪失した。 1945年(昭和20年)1月10日、「朝雲」は満潮型駆逐艦、帝国駆逐艦籍のそれぞれから除籍された。全滅した第4駆逐隊も解隊された。
※この「太平洋戦争中盤以降の戦い」の解説は、「朝雲 (駆逐艦)」の解説の一部です。
「太平洋戦争中盤以降の戦い」を含む「朝雲 (駆逐艦)」の記事については、「朝雲 (駆逐艦)」の概要を参照ください。
- 太平洋戦争中盤以降の戦いのページへのリンク