運動の高まり
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ラナシェンサ運動の発端は、1833年にボナバントゥーラ・カルラス・アリバウ(スペイン語版)が余興としてカタルーニャ語で書いた詩『祖国』である。カタルーニャの知識人たちは『祖国』を読み、文学作品にカタルーニャ語が使用されたこと自体に大きな衝撃を受けた。なお、アリバウ自身は生涯の大半をマドリードで過ごし、生活言語にはスペイン語を使用していた。 叙情詩人のマヌエル・ミラー・イ・フンタナルス(スペイン語版)もラナシェンサの提唱者のひとりであり、運動に大きな影響を与えた。当初はロマン主義の復興という目的を持っていたが、19世紀に興った自然主義や象徴主義などの様式や思想を取り入れている。ラナシェンサとは特定の文化様式を指すものではなく、それが花開いた文化的状況を指すものである。この運動はバルセロナなど狭義のカタルーニャ地方だけではなく、バレアレス諸島などのカタルーニャ語圏でも高まった。 狭義にはカタルーニャ語を文学言語として復興させようとする運動であり、広義にはカタルーニャ文化の復興または形成を意図する運動だった。他のロマン主義運動と同様に、ラナシェンサは中世の文芸を称賛することを特徴としている。1840年代にはカタルーニャ語による文学活動が広がりを見せ、ジュアキン・ルビオー・イ・オルス(スペイン語版)は「リュブラガートの風笛奏者」という筆名で『バルサローナ』紙にカタルーニャ語の詩を発表した。1859年には中世に開催されていた「花の宴」(Jocs Florals)として知られる詩歌競技会がバルセロナで復活した。「花の宴」では聖職者でもある詩人のジャシン・バルダゲー等が活躍し、バルダゲーは壮大な叙事詩『アトランティダ』をカタルーニャ語で執筆した。バルダゲーは『バルセロナ讃歌』や『カニゴー』なども発表し、カタルーニャの国民的詩人とされている。「花の宴」は学者や詩人による中世の再評価の一環であり、彼らは学問研究ではスペイン語を使用していたことに留意する必要がある。 19世紀後半には劇作家のアンジャル・ギマラーが『海と空』や『低地』を著した。「少数言語の復興に貢献した」功績で、1904年にはプロヴァンス語の再興に貢献したフレデリック・ミストラルと共同でノーベル文学賞を受賞するはずだったが、スペイン中央政府の干渉によってギマラーは受賞者リストから外れ、代わりにスペイン語作家のホセ・エチェガライ・イ・アイサギレがミストラルと共同受賞している。
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運動の高まり
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3月15日、シリア各地の主要都市で一斉にデモが行われ抗議運動が拡大し始めた。ハサカ、ダルアー、デリゾール、ハマーで数千人の抗議者が集まった。反体制側の報告によれば、治安部隊との衝突が起きたとされる。ダマスカスでは、200名程度の小さなグループが1,500名にまで膨れ上がった。ダマスカスでは1980年代以来これほどの抗議は見られなかった。「2011年シリア革命(Syrian Revolution 2011)」と呼ばれるFacebookの公式ページに、カイロ、ニコシア、ヘルシンキ、イスタンブール、ベルリンにおける支援デモの画像が掲げられた。リビアに縁のあるシリア革命支持者たちがパリのシリア大使館に押し寄せたとする未確認情報もある。3月18日、シリアにおいて過去10年間で最も深刻な暴動が発生した。金曜礼拝の後、オンラインで「尊厳の金曜日」(アラビア語: جمعة الكرامة)が呼びかけられ、政府汚職疑惑の解決を求めた数千人の抗議者がシリア各地の街路に繰り出した。地方治安部隊の指揮の下、抗議者たちに対する暴力的な取り締まりが行われた。抗議者たちは、「神、シリア、自由」そして汚職反対のスローガンを叫んだ。 ダルアーの街は暴動の焦点となりつつあった。3月20日、数千名がダルアーの街路に繰り出し、3日間にわたって非常事態法に反対するスローガンを叫び続けた。治安部隊の発砲により、1名が殺害され多数の人々が負傷した。市内のバアス党本部庁舎や、ラーミー・マフルーフ(アラビア語版、英語版)の経営する通信企業シリアテルの建屋に火が放たれた。翌日、ジャーシム(en:Jassem)で数百名が抗議を行い、バニヤース、ホムス、ハマーでも同様の抗議が行われたとされる。アサドはいくつかの懐柔策を示したが群衆は増大し続け、ダルアーのオマリモスク周辺に集まって要求を繰り返した。要求の内容は、全ての政治犯の釈放、抗議者を殺害した者に対する裁判の実施、48年間に及ぶシリア非常事態法の撤廃、さらなる自由、および汚職の終息であった。この日、ダルアーの携帯電話回線は切断され、市内いたるところに検問所が設置され、兵士が配置された。また、ヒズブ・タフリール(en:Hizb ut-Tahrir、解放党)は、バアス党政権に対する抗議の拡大に主導的な役割を果たすとともに、国内での抗議活動や世界中のシリア大使館に対する抗議活動を組織化した。
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