桂内閣の成立と憲政擁護運動の高まり
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「大正政変」の記事における「桂内閣の成立と憲政擁護運動の高まり」の解説
西園寺内閣の崩壊を受けて、元老会議(山縣有朋・井上馨・松方正義・大山巌・桂太郎各元老)が開かれ、次期首相選定が行われたが、難航する。まず松方が押され、薩派の面々が賛同するが、海軍有力者の山本権兵衛元海相は元老世代からの世代交代を求めたため頓挫し、結局高齢を理由に辞退、更に山本元海相や、山縣閥の平田東助前内相なども政権運営の困難を理由に辞退、次いで桂が山縣子飼いの寺内朝鮮総督を推薦するが、寺内を温存したい山縣の意向で辞退する。 後継首相の人選が難航している間、今回の政変は陸軍と藩閥政治家、特に山縣の横暴であるという批判が世間では高まった。12月13日、東京の新聞記者・弁護士らが憲政振作会を組織して二個師団増設反対を決議し、翌14日には交詢社有志が発起人となって時局懇談会をひらいて、会の名を憲政擁護会とした。19日の歌舞伎座での憲政擁護第1回大会では、政友会、国民党の代議士や新聞記者のほか実業家や学生も参加し、約3,000の聴衆を集めて「閥族打破、憲政擁護」を決議している。この動きは憲政擁護運動、後に第1次護憲運動と呼ばれることとなる。特に、政変の黒幕であるとみなされた山縣に対しては、暗殺を企てる刺客まで現れた。 元老会議での首相選定は、最終的に桂を指名せざるを得なかった。12月17日、桂に大命が降る。しかし、桂は半年前に内大臣兼侍従長になったばかりであったため、「宮中・府中の別」をあからさまに破る人事に非難の声があがった。これについては桂も気にかけており、大命降下と同時に特別に「卿をして輔国の重任に就かしめむことを惟ふ」と、勅語を下賜された。が、これが逆に「天皇の政治利用」とのちに批判を招いた。更に、政権交代の発端となった軍拡問題について、陸軍の増師に加えて海軍の増艦についても一時凍結、国防会議を設置して改めて審議する方針を打ち出したため海軍が硬化、大臣引き上げを示唆する。これを解決するためにまたしても勅語(優詔)によって斎藤実海相を留任させたため、「天皇の政治利用」批判に拍車をかけることになった。12月21日、第3次桂内閣が発足。
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