桂内閣の後見人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 08:53 UTC 版)
伊藤内閣は渡辺国武大蔵大臣と旧憲政党員の対立が原因で思うように政権運営が行えず、山縣ら元老らも協力する姿勢を示さなかった。第貴族院の山縣閥は内閣と対立、逓信大臣として入閣していた星を疑獄事件関与の疑いで追及し辞職に追い込み、内閣に対しては予算案反対で妨害した。結局伊藤は政権を投げ出すこととなり、山縣は後継の首相に直系である桂太郎が奏薦されるよう慎重に誘導し、6月10日に第1次桂内閣が成立した。桂内閣は山縣系が10人中6人を占める山縣の影響力が強いものとなった。明治34年(1901年)1月30日には山縣らが協力した日英同盟が成立している。また山縣は予算案を巡って桂内閣と対立した伊藤を仲裁したり、大山巌参謀総長の辞任問題などで桂を支援し、内閣を支えている。 明治35年(1902年)ロシアの朝鮮半島への進出が危惧される状況となり、4月11日には山縣の別荘無鄰菴で、伊藤・桂・小村寿太郎外相とともに対応を話し合う無鄰菴会議が行われたが、明確な方針は打ち出せなかった。一方で、桂と山縣は伊藤と政友会を切り離して解体させることを狙い、明治36年(1903年)7月に桂は辞表を提出した。桂は辞任撤回の条件として伊藤の枢密院議長就任を天皇に承諾させた。このため、伊藤は枢密院議長に就任し、政友会総裁を辞任せざるを得なったが、後任の総裁西園寺公望と幹部の原敬が政友会の動揺を防いだため、桂と山縣らの目論見は外れた。その中でも続いていたロシアと日本の交渉はこじれつつあり、政府内や世論でも日露開戦を唱える動きが強まりつつあった。12月16日の会議では桂・小村らがロシア側に再考を求めた後に満韓交換論で最後の交渉を求めるとしたのに対し、山縣はまず満韓交換論を交渉し、ロシア側が拒否すれば開戦するべきであると主張した。従来、山縣は陸軍内では日露開戦慎重派であったが、ここに至って開戦の覚悟を定めた。結局、ロシアは日本側の供給に明確に応じず、明治37年(1904年)2月4日の山縣も参加した御前会議で日露開戦が決定された。
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