運動の転機~代替地~
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/23 01:00 UTC 版)
こう着状態が約7年続き、地元広島県も事業の停滞を懸念して仲介に乗り出した。1982年(昭和57年)には当時の広島県知事がダム予定地に赴いて現地視察を行い、広島県庁にダム対策班を設置して交渉の落とし所を探る一方、建設省と三良坂町など地元との間の仲裁を図った。これ以降三良坂町なども態度を軟化させ、ダム対策特別委員会を設置して水没住民の意向調査を行うなどした。その中で1983年(昭和58年)に三良坂町が水没住民に対し、ダム湖畔に代替住宅地を提供する案を呈示したことにより、膠着していた事業が動き出した。 代替住宅地による補償とは、集落をダム近くの土地に丸ごと移転させ、コミュニティの維持を図る補償方式である。当然土地・住宅は補償の一環として提供される。特に大規模なダム事業で実施されることが多く、井川ダム(大井川・静岡県)・宮ヶ瀬ダム(中津川・神奈川県)・徳山ダム(揖斐川・岐阜県)などで実施されている。広島県内では温井ダム(滝山川)で施工が開始されていた。灰塚ダムでも複数の候補地を選定してここに住民を集団移転させることで、故郷を遠く離れず生活再建を行うことが出来る対策を呈示したことで住民も対応を軟化。1984年(昭和59年)実に10年目にして実施計画調査が着手され、翌1985年(昭和60年)には「同盟会」は「灰塚ダム建設対策同盟会」と改組され、将来の生活再建に向けた真剣な話し合いが建設省と行われた。
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