同和地区
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/16 15:04 UTC 版)
同和地区(どうわちく)とは、同和対策事業の対象となった地区である。総称であり包括的定義のない被差別部落(あるいは特殊部落)とは異なり、正式な行政用語である。
同和対策事業は2002年(平成14年)で終了しているため、日本共産党を中心に旧同和地区という呼び方もされる。
これに対し同和対策事業の対象とならなかった被差別部落は、未指定地区、もしくは未解放部落と呼ばれる。
概要
「同和地区」の呼称は戦前の1941年(昭和16年)5月の「東京都同和地区調」に登場するが[1]、同和対策事業の最初の根拠法たる「同和対策事業特別措置法」や、またその後の地域改善対策特別措置法(地対財特法)には出てこない。
これらの法令で規定されているのは「歴史的社会的理由により生活環境等の安定向上が阻害されている地域(以下「対象地域」という)について・・・」との表現である。
逆にこれら同和対策事業の必要性を指摘した「同和対策審議会答申」はその前文の冒頭で「昭和36年12月7日内閣総理大臣は本審議会に対して『同和地区に関する社会的及び経済的諸問題を解決するための基本方策』について諮問された。」として、この時点で「同和地区」という言葉を使用し、また、同答申はその「第一部の一同和問題の本質」の項で、「・・・現在でも『未解放部落』または『部落』などとよばれ、明らかな差別の対象となっているのである。
この『未解放部落』または「同和関係地区』(以下単に『同和地区』という)の起源や沿革については、・・・」とされているところからも明らかである。
したがって「同和地区」の意味するところは、「行政用語であり、被差別部落と同義」と解するべきであるとして「同和地区とは、同和対策事業の対象となった地区であるとの説明は誤りである」とする意見もある。
特に地元で「寝た子を起こすな」という声が強いところでは、同和地区と認定されない地区がある。(中野区中央、柏市八幡、八丁堀、入船) こうした未指定地区の正確な数はわからないが、部落解放同盟は全国で1,000地区にものぼると推定し、同和対策の実施を求めている。しかし政府は、1987年(昭和62年)以降、新たな地区指定は行なっていない。[2]
同和地区の概況
総務庁(現総務省)長官官房地域改善対策室の調査によれば、1993年(平成5年)の時点における同和地区の数は全国で4,533地区(うち91地区は同和関係人口が把握できなかった[2])。
各都道府県のうち、最も多くの同和地区を抱えるのが606地区を抱える福岡県、続いて、472地区を抱える広島県、457地区を抱える愛媛県となる。
また滋賀県のように地区の数は少ないが広大な面積が同和地区の地域も存在する。
日本共産党衆議院議員の東中光雄によると、1973年(昭和48年)9月に大阪市で同和対策事業の対象地域を指定した際、同年末まで対象地域の住民へ経過を通知しなかったことがあったという[3]。
脚注
- ^ 渡部徹, 秋定嘉和 編(日本語) 『部落問題・水平運動資料集成』 補巻2、三一書房、1978年、2170-2173頁。 NCID BN01546322。
- ^ a b 秋定嘉和, 桂正孝, 村越末男 『新修部落問題事典』解放出版社、1999年。 ISBN 978-4-7592-7004-4。 NCID BA43386719。
- ^ “第72回国会 衆議院 内閣委員会 第8号 昭和49年2月26日”. 国会会議録検索システム. 国立国会図書館. 2022年10月16日閲覧。
関連項目
外部リンク
同和地区
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「アファーマティブ・アクション」の記事における「同和地区」の解説
国や自治体は部落問題を解消するため、いわゆる「同和行政」として、同和地区の住民に対して各種の優遇措置を設けてきた。これも積極的差別是正措置の一種といえる。 具体的には、部落差別における同和対策事業特別措置法(1969年7月10日施行、1978年11月13日法律第102号で改正、1982年3月31日発効、1982年3月31日から1986年度3月31日まで有効の法律第16号地域改善対策特別措置法、地域改善対策特定事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律1987年3月31日法律第22号に引き継がれた)などがこれに類すると考えられる。 兵庫県姫路市立飾磨高等学校は、部落解放同盟兵庫県連の要求を受け、1970年の入試で合格点に達しなかった部落出身生徒3名を入学定員の枠内で優先入学させた。1971年には、兵庫県芦屋市立芦屋高等学校が、入学定員の枠外における部落出身生徒の優先入学を認めた。 1973年11月には、部落解放同盟大阪府連合会副委員長(当時)の泉海節一らが大阪市立大学に「同和地区の生徒の学力が低いのは差別の結果であるから、成績が悪くても入学をさせて、部落解放の立場で闘う医師や弁護士をつくるのが当然」と訴え、同大学の医学部と法学部に対して部落解放同盟関係者の子弟の優先入学(「委託学生制度」)を要求した。これを受け、1974年5月15日には大阪市立大学の森川学長が記者会見を開き、医学部における「委託学生制度」を受け入れる方向で検討すると発表した。実際に某大学の医学部がこれを受け入れ、2名の解放枠の医学生が誕生したが、1名は挫折し、もう1名は医師となったものの部落解放運動からは縁が切れた。 1974年2月には、大阪市が関西大学に「部落青年」の受験番号を示して優先入学を迫っている。 1976年2月には、部落解放同盟大阪府連合会矢田支部長(当時)の戸田政義が大阪府私学課を通じて私立大鉄高等学校(現・阪南大学高等学校)に圧力をかけ、「特別入学の配慮をいただきたい。とくに解放同盟矢田支部の生徒についてはよろしく」と要求している。その結果、同校は解放同盟矢田支部の生徒のために二次試験を行ったが、問題の生徒は二次試験にも落ちてしまったため、同校の校長と教頭は部落解放同盟から糾弾を受け、最終的に「特別補欠合格」とすることで決着がついた。 部落解放同盟和歌山県連合会は、和歌山県立医大で「差別発言」があったと主張し、同和地区出身生徒の優先入学を大学側に要求。これに対し、1976年3月5日、正常化連和歌山県連や日本共産党が同大学学長に「不当な圧力に屈するな」との申し入れを行った。 同和行政は長年続くうちに、給付金の窓口などが利権化する問題が発生した。近年では経済的な格差が縮小したとして廃止されるものが増えたが、公務員の採用優遇措置などの形で残っている地域もある。ただし、部落問題について発言することは、「差別に加担するのか」などと糾弾されかねないセンシティブな問題であるため公に議論されることが少ない事例である。 「兵庫方式」および「七項目の確認事項」も参照
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