当時の学校の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/08 07:20 UTC 版)
「八幡市立男山中学校」の記事における「当時の学校の状況」の解説
同和地区側が差別の解消に至っていないと主張する理由には、当時の男山中学校の「すしづめ教育」、「コース別編成」、「カツ入れ教育」が挙げられている。 事件が起こった1962年の男山中学校の生徒数は1,112人で、うち同和地区の生徒は260人いた。1クラスあたりの生徒数は一番多いクラスで58人にもなり、過密状態であった。しかし、実際の出席生徒数は長期欠席者など(学年で68名)が登校していなかったため、1クラスあたり50名前後であった。そのため男山中学校は1クラスあたりの人数を増やして学級数を21に圧縮していた。。京都府教育委員会には公式の学級数の23学級と報告し、水増しで予算や教員を確保していた。 1955年度の入学生は344人であったが、3年後に卒業できたのは280人で、64人の生徒が長欠・不就学で卒業保留になっている。また、1956年度から1961年度までの5年間で、学齢超過のために除籍された生徒は101名もいた。除籍された生徒のほとんどが同和地区の生徒であった。1963年度卒業生の進路について見てみると、同和地区外の生徒は進学186人(64%)就職106人(36%)であるのに対し、同和地区は進学18人(26%)就職52人(74%)で、進学と就職の割合が完全に逆転していたことが分かる。1960年には京都府の同和地区に在住する中学生の約70%が就職していたとされるが、男山中学校でもそのような傾向が見られた。 男山中学校はそのような進路状況のため、3年生になると教科選択制の学級編成を行っていた。コース別編成は、英語・数学を学ぶ「進学コース」5学級、「就職コース」(商業・技術・家庭が各1クラス)3学級となっていた。コース選択は生徒の希望制だったが、実際には成績の悪い生徒や経済的に進学できない生徒は就職コースに回され、進学コースには同和地区の子供はほとんど入っていなかった。教師や進学コースの生徒・親からは勉強がはかどるため好評で支持する声があがっていた。一方就職コースでは、学力の下層の者が集まり授業は成立していない状況で、学校の秩序を守るため、生徒をおどしたり殴ったりする行為が横行していた。職員室では「同和地区の子だから仕方ない」といったことが平気で語られていた。 事件を受けて同和地区側は、「同和教育の内容が差別的なコース別クラス編成であったり、子供がおかれている社会的背景を見ずに暴力で解決したりしている。事件はそのような学校の状況から発生した」と糾弾した。
※この「当時の学校の状況」の解説は、「八幡市立男山中学校」の解説の一部です。
「当時の学校の状況」を含む「八幡市立男山中学校」の記事については、「八幡市立男山中学校」の概要を参照ください。
- 当時の学校の状況のページへのリンク