当時の学界の受け止め
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/03 18:43 UTC 版)
「印欧語族における母音の原始的体系に関する覚え書き」の記事における「当時の学界の受け止め」の解説
ソシュールが青年文法学派の反感を買っていたためか、ドイツ学界の公な反応は薄く、個人攻撃さえあった。ヘルマン・オストホフがアイデアの盗用を疑って辛辣な批判を行い、ブルークマンが短い書評を公開したほかは、ドイツでの反応はなかった。一方で、公な形にはなっていないものの、ドイツ比較言語学者たちの間では関心を呼んでいた。ソシュールの友人で歴史学者のフランシス・ド・クリュ (Francis De Crue) によれば、ソシュールはドイツ文献学者フリードリヒ・ツァルンケ(英語版)のところを訪れた際、この論文の著者の親戚かと訊かれたという。 ソシュールの理論を正当に受け入れたと言えるのは、ポーランドのミコライ・クルシェフスキ(英語版)とフランスのルイ・アヴェ(英語版)であった。アヴェはジュネーブの新聞に論文を高く評価する書評を掲載したが、これはソシュールをいたく喜ばせた。しかし青年文法学派の反応が堪えたためか、ソシュールはこれ以降比較言語学の研究の最前線に来ることはなかった。
※この「当時の学界の受け止め」の解説は、「印欧語族における母音の原始的体系に関する覚え書き」の解説の一部です。
「当時の学界の受け止め」を含む「印欧語族における母音の原始的体系に関する覚え書き」の記事については、「印欧語族における母音の原始的体系に関する覚え書き」の概要を参照ください。
- 当時の学界の受け止めのページへのリンク