学力保障
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 19:04 UTC 版)
明治時代(1868年 - 1912年)初期の同和地区の経済状況、衛生状況は非常に劣悪なものであった。その原因の一つが教育水準の低さであった。すなわち、保護者である親が子供を学校に行かせないために、子供の教育水準が低く、それがまた次の世代に継承されるという悪循環が同和地区の貧困を固定化させていた。明治後期に学力保障として民間や地方自治体で始められた同和教育の基本的な考え方は、このような負の連鎖を断ち切ることで同和地区の貧困を解消し、部落差別の解消につなげるというものである。 農繁期託児所を初めて開設した人物として知られる筧雄平は鳥取県美穂村において1898年(明治31年)に当時「細民部落」と呼ばれた同和地区に分教場を開設し、未就学であった同和地区の児童を学ばせた。また、租税を滞納したり、子供を就学させないといった親の非行も目に余ったため、年に数回村民を集めて学習会が行われた。この活動は大きな成果をあげ、1921年(大正10年)に分教場を尋常小学校(現在の小学校)に併合した際には、「租税の滞納や未就学児童はほぼ皆無であった」と記録されている。 戦後は同和対策事業の一つとして行われ、昭和40年代(1965年 - 1974年)には地区進出学習会と呼ばれる、同和地区の児童生徒を対象とする教育が行われた。同和地区の児童生徒の把握、地区進出学習会の運営といった目的で、同和地区の児童が通学する小学校には同和加配教員が配置された。また、当時は小中学校の義務教育修了後の高等学校や大学への進学率が著しく低かった同和地区の児童生徒の進学を奨励するため、同和地区の児童生徒のみが受給可能な奨学金や、給付金制度が自治体において整備された。
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