失聴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 06:15 UTC 版)
「ベドルジハ・スメタナ」の記事における「失聴」の解説
仮劇場の芸術監督として再任された後、その職務の中の幾ばくかの期間を使って、スメタナは5番目のオペラ『二人のやもめ』を書き上げた。作曲は、1873年6月から1874年1月の間に行われた。このオペラは、1874年3月27日に仮劇場で初演され、この舞台の後、スメタナの支援者たちは、彼に装飾の施された指揮棒 (baton)を贈呈している。しかし、スメタナと対立する者たちは、彼への攻撃を続けていた。具体的には、マイール体制と比べて、彼の指揮者ぶりを非難し、スメタナの下で「チェコオペラは、あとわずかで死んでしまう病に罹りつつある」と主張した。同年夏ごろまでに、スメタナは病に伏せることになる。咽喉感染症に続いて、発疹、耳に明らかな閉塞が起こった。8月中ごろまで、働くこともできず、彼の仕事は代理として、アドルフ・チェフが担当した。各新聞は、スメタナは「最近の特定の人々によって引き起こされた、精神的な苦痛の結果、病気になった」と書いている。 9月になると、スメタナは健康状態が改善されるまで、職を辞することを仮劇場に伝えた。スメタナの右耳は、既に完全に失聴しており、10月になると残る左耳も同じく完全に失聴し、中途失聴者となった。仮劇場を辞した後、仮劇場は、スメタナに、彼のオペラを、彼がしぶしぶ承諾した構成で上演し続ける対価として、年1200ガルデンの年金を支給することを申し出た。また、これに加えて、以前のプラハの生徒たちと以前愛人だったヨーテボリのフレーダ・ベネッケによる、1244ガルデンに達する支援もあった。この支援は、スメタナが海外で治療を探すことを可能にしたが、結局それは、できなかった。1875年1月、スメタナは彼の日記に、「もし私の病が不治のものだったとしたら、私はこの人生から解放されるべきなのだろうか」と書き残している。彼の精神は、主にお金の問題に加えて、ベッティーナとの関係の悪化によって、この時かなり悪化していた。「私を嫌悪したり迫害する人と、同じ屋根の下で生活することなど出来ない」とスメタナは彼女に伝えた。離婚が協議されたものの、結局、二人は不幸な結婚生活を続けることとなった。 1881年開場の国民劇場(左)、火災焼失後1883年に再建された国民劇場(右)
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