施設の運営
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 14:40 UTC 版)
後年と異なり、マキたちの施設に対して、国からの補助は一切なかった。ド・ロ神父は精神面、経済面で支援し、経済面の基礎固めとして田畑を買い与えたものの。基本的にマキたちが自力で支えていた。育児の一方で、農業を営み、その収穫で事業の経費をまかなった。毎時末期には、ヤギや乳牛も飼っていた。施設育ちの者たちの中には、障害のために結婚や就職の困難な者もおり、そうしたものたちは成人後も施設に残り、児童たちの世話などにあたった。 児童たちが増える一方のため、1879年にド・ロ神父の指導のもと、十字会の敷地内に製糸工場が作られた。カイコを飼って糸を紡いだ。作られた衣類はマキたちの服になり、収入源にもなった。 1909年(明治42年)、内務省より毎年の助成金が出るようになった。宣伝行為を行っていないため、マキたちの働きは世間にあまり知られなかったものの、翌1910年(明治43年2月)に地元紙の「東洋日の出新聞」で「奇特なお婆さん 育てた子供が五百余名」「慈善婆さん語る」などと紹介され、ある程度、知られるようになった。 子部屋での児童の養育は、次第に棄児から貧困児童が中心となり、里親による委託養育が重視された。マキは親のいない児童に対して、里親を重視して里親捜しに尽力したが、引き取り手のいない児童は自分の戸籍に入れて、自分の子供として養育した。1917年(大正6年)末には、院内養育が9人、委託養育が36人であった。 マキは「霊魂の救いが重要」と考えて、子供に洗礼を施すこともあった。ただし、児童の成長の後には何の干渉もしないとの考えから、キリスト教徒を増やすことも目的としておらず、育てた子供に信仰の強制はしなかった。 マキ自身は農家の生まれであり、正式な教育は受けていなかったものの、子供たちの教育には熱心であり、必ず学校に通わせた。小学校を卒業した者たちは、本人の希望で就職させた。両足に障害を負う者に、資金援助として内務省からの奨励金200円を全額与え、結婚させ、床屋を開業させたこともあった。
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