製作方法
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溝口は完全主義者であり、つねに俳優やスタッフにベストを尽くして高度な仕事をするよう求めた。俳優の演技を絞り、スタッフに無理な注文を出し、自分が気に入るまで何度もやり直させた。しかし、自分からイメージを伝えたり細かく指示を出したりすることはなく、あらゆる問題の解決方法は俳優やスタッフに委ね、その答えが自分の求めるものになるまで待った。溝口は俳優やスタッフに考えさせ、努力や工夫をつくさせたうえで修正し、決定するという方法をとることで、その力を最大限に引き出させた。俳優やスタッフを罵倒し、怒鳴りつけることもあり、また役に立たない人物や要求に応えきれない演技をする俳優を容赦なく仕事から降ろした。そのため溝口はしばしば「サディスト」「暴君」「ゴテ健(「ゴテる」は不平不満を言うこと)」などと呼ばれた。 脚本は自分では書かず、依田義賢や成澤昌茂などの脚本家に執筆させた。溝口の脚本作りの方法は、脚本家が書いた第1稿を酷評し、そこから何度も書き直させ、自分の気に入るような脚本に仕上げるというもので、完成するまでに10稿以上も練り直すこともあった。最終稿が完成してから撮影を始めても、撮影現場に脚本家を呼び寄せてセリフを修正させた。その時は、当日に撮影するシーンのセリフを黒板に書き、打合せをしながら俳優にセリフを喋らせてみて、不自然なところや喋りくいところなどを直した。また、溝口は絵コンテを作らず、撮影現場でリハーサルをする俳優の動きを見ながら、カメラのアングルやポジション、ショットの長さなどを決めた。 リアリズムを志向した溝口は、映画美術でも本物の小道具を使ったり、スタッフにその時代の風俗や生活様式などを徹底的に調べさせたりして完璧さを求めた。溝口は『唐人お吉』で時代考証の重要性を認識し、1930年代に明治物を作った頃から考証に凝るようになり、小道具のランプひとつに細かく注文を出して1日中粘ったこともあったという。美術や衣装や建築などの考証に専門家を招くことも多く、日本画家の甲斐庄楠音を時代風俗や衣装の考証に何度も起用したほか、『狂恋の女師匠』では美術考証に小村雪岱、『残菊物語』では美術考証に木村荘八、『元禄忠臣蔵』では武家建築考証に大熊喜邦、民家建築考証に藤田元春を起用した。こうした溝口の美術に対する完璧さの追求が頂点に達したのは『元禄忠臣蔵』である。この作品では徹底した史料調査に基づくリアルな忠臣蔵を志向し、大熊喜邦が所有する江戸城の平面図を基にして松の廊下のセットを原寸大で再現した。 俳優への演技指導は、具体的にこうしろという指示は出さずに「やってみてください」と言うだけで、あとは満足のいく演技になるまで同じ芝居を何度もやり直させ、俳優に自分で演技や動きを工夫させるようにした。悩んだ俳優がどうすればいいのか訊いても「それはあなたが考えてください。あなたは役者でしょう」と突き返した。溝口は具体的に演技指導をしない代わりに、「反射していますか」と何度も俳優に問いかけた。この言葉には、俳優が相手のセリフや動きに反応して動くことができるかという意味がある。演技のやり直しは何十回もやらせることがあり、例えば『楊貴妃』では山村聰にワンカットで42回のテストを繰り返させ、『赤線地帯』では三益愛子の舞台的な歩き方が気に入らなくて80回ものテストをさせた。また、俳優たちには、役になり切るために努力することを求めた。文楽の世界を描く『浪花女』では、主演の田中絹代にたくさんの文楽の専門書を読んで勉強するよう命じ、『山椒大夫』でも女奴隷役の香川京子に中世日本の奴隷制度の歴史書や経済史の本を読むことを要求した。 溝口は俳優の演技が気に入らないとしばしば激怒し、時には悪口雑言を言い放つことがあった。『わが恋は燃えぬ』では菅井一郎が少し長いセリフを喋り切れないことに腹を立て、菅井の頭をスリッパで叩き、「精神病院へ行き給え」と言い放った。『残菊物語』では主演の北見礼子の子供をあやす演技が気に入らず、「君、子供の抱き方が違う。子供を産んだ経験がないから」と言って降板させた。『雨月物語』でも兵士たちに輪姦される女性を演じた水戸光子の演技に満足せず、「キミはいったい(輪姦された)経験がないんですか」と怒鳴りつけた。『楊貴妃』では入江たか子の演技に満足せず、「何ですかその芝居は。それは猫です、猫芝居ですよ」と罵倒した。猫芝居は当時の入江が主演した化け猫映画のことであるが、化け猫映画はゲテモノ映画として扱われていたため、往年の大スターである入江が落ち目になったという風に捉えられていた。溝口は入江に何度も演技をやらせても不機嫌な態度のままOKを出さず、入江はその気持ちを理解して自ら降板した。溝口は過去に入江のプロダクションで『滝の白糸』を作って成功させてもらった縁があったため、周りのスタッフや俳優は溝口があまりにも冷酷だと批判した。 溝口の製作方法は、俳優やスタッフに最高の緊張感を強いるものだったが、溝口も作品の雰囲気に浸りながら緊張感を作って自分自身を追い込んだ。撮影現場の緊張感が中断されないようにするため、撮影中は終日現場のスタジオを離れず、昼食時でも外へ出ることがなかった。晩年にはスタジオに尿瓶を持ち込み、スタジオの隅で用を足していたという。『雨月物語』の撮影では、移動撮影用のクレーンの監督席に腰かけていた溝口が、緊張感のあまり力強く手すりを握りしめて小刻みに震え、その振動がカメラにまで伝わってフレームが微妙にずれたため、カメラマンの宮川一夫の進言でクレーンの監督席から降ろされたという。
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製作方法
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京象嵌として有名な布目象嵌(鉄地への金銀装飾)を例として挙げる。 まず鉄、真鍮、四分一(銀と銅の合金)生地(主に鉄)の表面に専用の鏨で布目模様の溝を彫る。 次に薄く延ばし型取りした純金や青金、純銀の板・線をそのくぼみに金槌を使いながら埋め込む。 表面の微細な段差をなくし、滑らかに加工するために、漆を塗り、焼きをいれた後に研ぐ。この工程は数回繰り返される。 全体を再度研磨して仕上げる。はめ込んだ部品やその周囲にさらに彫刻を施す場合もある。 特にこの布目象嵌は純銀純金を使用するために、ポルトガルから日本に布目象嵌が伝えられた当時から大変高価で庶民が手を出せる物では無かった。そのため、代用品として漆芸の中の蒔絵が発達したと言う経緯がある。また金属象嵌には窪みを掘って図案に沿って切った金属板を嵌め込む「平象嵌(本象嵌ともいう)」、透かし抜いた図案の穴にピッタリ合わせ嵌める「切り嵌め」、高肉彫りを施した金属板を嵌め込む「高肉彫色絵象嵌」、「線象嵌」、「打ち込み象嵌」、「黒金象嵌(ニエロ)」、「銷(け)し象嵌」等がある。これらはいずれも彫金技法の中の一つである。 その他磁器においては、いったん成型した器に彫刻を施し、そこに色の異なる土を象嵌する方法がある。また金属ではなく、薄く削った貝殻をはめ込む技法は螺鈿(らでん)と呼ばれる。「螺」は貝のことで、「鈿」は象嵌のことである。 また、様々な色調の木材をはめあわせて絵の板を作り、それをカンナで薄く削り、和紙に貼り付けたものは、いわゆる「寄木細工」の技法のひとつで、木象嵌(もくぞうがん)と呼ばれる。 「w:Intarsia」および「w:Marquetry」も参照
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製作方法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 08:19 UTC 版)
様々な製作手法(技法)が存在する。手法・技法は素材と密接に関わっている。多くの場合、複数の素材と技法が用いられている。例えば以下のような素材・手法である。 ポリエステルパテ - おおまかな形を盛り付けてから、硬化後に細工を施す。 無発泡ポリウレタン樹脂 - おおまかなブロック状の成形物をつくってから、削り出す。 石粉粘土- 乾燥により硬化する粘土を用い、おおまかな形を盛り付けてから、硬化後に細工を施す。 焼成粘土- 加熱により硬化する粘土を用い、おおまかな形を盛り付けてから、硬化後に細工を施す。 繊維強化プラスチック - ガラス繊維等(の布)に合成樹脂を塗り付け、形を整え、硬化後に細工を施す。 ほとんどの場合、完成したフィギュアはそのままでは長期の保存、展示には向かない。ポリエステルパテは硬化剤との化学反応が硬化後も続くため、経時変形により収縮する。石粉粘土などは強度が不足しているため、わずかな振動で破損する可能性がある。そのため完成したフィギュアを原型とし、シリコーンゴムと無発泡ポリウレタン樹脂を用いて複製を行ない、複製したものを完成品として仕上げることが多い。 ソフトビニール(PVC、ポリ塩化ビニル)製品の製作方法は、粘土などで原型を作り、その後、シリコーンで型取りしてからワックスの原型を作る。そこで細部を修正してから表面を硝酸銀の還元による銀鏡反応によって導電化してから銅を電鋳によって積層する。その後、加熱しワックスを溶かして取り除いてから銅の金型の薄い部分を補強する。量産時には熱硬化性の塩化ビニルのモノマー (クロロエチレン) を入れた金型を高温の油が入った釜 (オイルヒーター) に湯煎のようにして加熱する。この時、温度管理と加熱時間に注意する。熱によりクロロエチレンが重合してポリ塩化ビニルになったら金型をオイルヒーターから取り出し、未反応のモノマーを戻して冷却してから金型から取り出す。加熱時間が短い方が薄いソフトビニールが出来る。このプロセスを繰り返す。 こうしたフィギュアは、高価で組み立て・塗装に技術と労力を要する事から、購入層はもっぱら一部の愛好者・モデラーに限られていたが、近年では食玩フィギュアの製造ノウハウを応用して、中国などの工場で製造・塗装された精巧で安価な完成品フィギュアが流通するようになり、模型の範疇にとどまらずキャラクター商品のひとつとして、書籍・ゲームソフト・DVDソフトなどの付録や購入特典として付属するケースも多く見られる。 なお、例外として、欧米で古くから流通するフラットフィギュアがある。これは絵を元にして石板を直接彫って鋳型とするためフィギュアの原型は存在しない。
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製作方法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 17:53 UTC 版)
「アルフレッド・ヒッチコック」の記事における「製作方法」の解説
ヒッチコックの作品は娯楽文学や大衆小説を原作としたものが多いが、それを映画化する時は小説の文学性にとらわれず、自分が気に入った基本的なアイデアだけを採用し、あとは自分の感性に合うように内容を作り変えた。脚本を自分だけで書くことは少なく、大抵は他の脚本家と一緒に執筆したが、脚本家として自分の名前をクレジットタイトルに出すことはしなかった。ヒッチコックと何度もコンビを組んだ主な脚本家には、サイレント映画時代のエリオット・スタナード(英語版)、イギリス時代のチャールズ・ベネット(英語版)、ヒッチコックの元秘書のジョーン・ハリソン、アメリカ時代のベン・ヘクトやジョン・マイケル・ヘイズ(英語版)がいる。ヒッチコックは脚本について「よきにつけ、あしきにつけ、全体をわたしなりにつくりあげなければならない」と述べているが、筈見によると、ヒッチコックが個性のはっきりした一流脚本家と仕事を共にしたにもかかわらず、完成した作品はまったくヒッチコックのものになっているという。 脚本が完成すると、すぐに撮影に取りかかるのではなく、1ショットごとにキャラクターの設定やアクション、カメラの位置などをスケッチした詳細な絵コンテを作成し、撮影前までに頭の中で作品の全体像ができあがっているようにした。ヒッチコックはこうした紙の上ですべてのシーンを視覚化する作業を、実際に撮影を行うことよりも重要な作業と見なした。そのため紙の上で映画が完成すると、ヒッチコックの仕事は終わったも同然となり、撮影は単にすべてを具現化するだけの作業となった。映画全体を頭の中に入れていたため、撮影中に脚本を見たり、カメラを覗き込んだりすることはしなかった。製作スタッフには自分の気に入った人物や、自分が望むことを理解している人物を起用した。その主なスタッフに、イギリス時代のカメラマンのジャック・E・コックス(英語版)、アメリカ時代にチームを組んだカメラマンのロバート・バークス(英語版)、編集技師のジョージ・トマシーニ(英語版)、衣裳デザイナーのイーディス・ヘッド、作曲家のバーナード・ハーマン、タイトル・デザイナーのソウル・バスがいる。 ヒッチコックは「俳優なんてのは家畜と同じだ」と発言したことで知られている。ヒッチコックは俳優を映画の素材の一部と見なし、俳優の個性や演技力は求めず、カメラの前で演技らしいことをしないよう求めた。ヒッチコックはトリュフォーに「(俳優は)いつでも監督とカメラの意のままに映画のなかに完全に入りこめるようでなければならない。俳優はカメラにすべてをゆだねて、カメラが最高のタッチを見いだし、最高のクライマックスをつくりだせるようにしてやらなければならない」と述べている。実際にマーガレット・ロックウッドやアン・バクスターは、撮影中にヒッチコックが最小限の指示しか与えず、俳優の演技にあまり注意を払わなかったと証言している。また、ジェームズ・メイソンは、ヒッチコックが俳優を「アニメ化された小道具」と見なしていたと述べている。ヒッチコックはお気に入りの俳優と何度も仕事を共にしており、その主な俳優に4本の作品に主演したジェームズ・ステュアートとケーリー・グラント、3本の作品でヒロインを演じたイングリッド・バーグマンとグレース・ケリー、出演回数が最多の6本のレオ・G・キャロルがいる。
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製作方法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/19 14:18 UTC 版)
製作方法により以下の種類がある。 本袋 表と裏を袋状に織り上げたもの。表裏の耳の部分が繋がっている。 縫い袋 表と裏を鯨8寸幅で別々に織り上げ、耳を縫い合わせて袋状にしたもの。 片縫い袋 表と裏の部分を合わせて鯨16寸幅に織り上げ、幅半分に折って、耳を縫い合わせたもの。
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製作方法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 01:05 UTC 版)
山中は自ら撮影でカメラアングルとポジションを決め、編集も自分で行った。演出のための絵コンテを書くことはなく、頭の中で絵を描きながら演出した。山中の演技指導は、俳優に根本的な指示を出すだけで、具体的に「こういうふうにやれ」とか「ああいうふうにやれ」とは言わず、あとの細かい所は俳優の思うままにやらせてみて、それがよければOKを出すというやり方だった。三代目中村翫右衛門は、山中の演技指導が「自分の演出の根本の方向へ、極めて自然に各自の技能に応じて自然に引っ張り出していた。枠の中で押込めなかった」と述べている。山中がコンビを組んだスタッフやキャストには、脚本の三村伸太郎(9本)、カメラマンの吉田清太郎(9本)、俳優の大河内傅次郎(12本)、嵐寛寿郎(6本)、片岡千恵蔵(4本)、四代目河原崎長十郎や中村翫右衛門などの前進座の俳優(3本)がいる。 山中は早撮りの監督であり、とくに「ナカ抜き(中抜き)」という演出方法で撮影の効率化を図ったことで知られる。ナカ抜きは、あるシーンを撮る場合に、そのショット割りに従って順番通りに撮影していくのではなく、そのショット割りに同じカメラポジションのショットがいくつかあったとしたら、それらをまとめて先に撮ってしまい、そのあとに別のカメラポジションのショットを撮影するという方法のことであり、それによってカメラや照明を移動させる手間が省けた。この方法は後のテレビ撮影などで常識的に用いられたが、1930年代当時はほとんど行われておらず、山中が採り入れてから普及し出すようになった。加藤によると、山中のナカ抜きはワンシーンの中だけでなく、そのセットでのシーンが数回あったとしたら、その全シーンの同じカメラポジションのショットを、たとえシーンが飛んでいようと、全部先に撮ってしまい、いったん据えたカメラをなるべく動かさないようにしたという。ナカ抜きだとシーンやショットを飛ばして撮影するため、俳優たちは自分の演技やセリフがどのシーンでどのようにつながるのか見当がつかず辟易したが、山中の頭の中にはショットを組み立てる計算が全部入っており、編集時に混乱せずにぴったりとショットを合わせることができたという。
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製作方法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 08:41 UTC 版)
「チャールズ・チャップリン」の記事における「製作方法」の解説
チャップリンは自分の映画の製作方法についてほとんど話そうとはせず、もし作り方がわかってしまえば「魔法はすっかり消し飛んでしまう」と主張した。また、1918年にチャップリンは業界のスパイが記者に化けて製作会議を盗み聞きしたという事件に遭遇し、それ以来映画製作において秘密主義を貫き、スタジオの訪問も禁じていた。そのためチャップリンの生涯を通じて、その製作方法が知られることはほとんどなかったが、没後に映画史家のケヴィン・ブラウンローとデイヴィッド・ギル(英語版)により研究が行われ、その調査結果が3部構成のテレビドキュメンタリー『知られざるチャップリン(英語版)』(1983年)の中で紹介されて以来、チャップリンのユニークな製作方法が明らかになった。 チャップリンは『独裁者』で会話付きの映画を作り始めるまで、決定稿の脚本を用意してから撮影を始めることがほとんどなかった。初期作品の多くは「小さな放浪者が保養所に入る」や「小さな放浪者が質屋で働く」などの漠然としたアイデアから出発し、そこからセットを組み立て、俳優と協力してギャグを即興で作りながら、それぞれのシークエンスを順序通りに撮影した。チャップリンは頭の中にあるアイデアをもとに、何度も撮り直しを行い、アイデアの破棄や変更を繰り返しながらストーリーを構築した。そのためすでに完成したシーンがストーリーと矛盾していれば再撮影する必要が生じた。『巴里の女性』以後は、準備されたプロットから撮影を始めたが、デイヴィッド・ロビンソンによると、『モダン・タイムス』までの作品は「ストーリーが最終的に出来上がるまでに、アイデアは多くの変更と修正を経た」という。 チャップリン以外には、製作のすべての面でこれほどまでに完璧に支配し、あらゆる仕事をこなした映画製作者はいない。もしも可能であったなら、チャップリンはすべての役を自分で演じ、(息子のシドニーが冗談半分ながら指摘したように)すべての衣装を自分で縫ったことだろう。 チャップリンの伝記作家デイヴィッド・ロビンソン この方法で映画を作るということは、チャップリンが当時の他の映画監督よりも、映画を完成させるのにより長い時間を要したということを意味した。チャップリンはアイデアが煮詰まると、インスピレーションを取り戻すまでスタジオを離れて撮影を休み、それが何日間も続くこともあった。チャップリンの厳格な完璧主義は、撮影をさらに遅らせた。友人のアイバー・モンタギュー(英語版)によると、チャップリンにとって「完璧以外に正しいものはない」という。チャップリンは完璧な映像を作るため、同じシーンを何十回でも撮り直し、そのために膨大な長さのフィルムを使用したが、どれだけの費用と時間をかけても満足するシーンでなければ、何千フィートもの撮影フィルムをカットした。『キッド』は完成作品が約5300フィートなのに対し、総撮影量は約27万9000フィートに及んだ。 チャップリンは私生活が入り込む余地がないほど映画作りに没頭し、晩年でさえも、ほかのすべてのことや人よりも優先して仕事にすべてをささげた。そんなチャップリンは製作過程のすべてを自分でコントロールした。他の俳優が演じる役も、自分が解釈した通りに演じることを求めた。チャップリンはすべての映画を自分で編集し、数万フィートに及ぶ撮影フィルムを処理して、自分が求める完全な作品を完成させた。こうした完全な独立性により、映画批評家のアンドリュー・サリスは、チャップリンを最初の作家主義的監督のひとりと見なした。しかし、チャップリンには長年のカメラマンであるローランド・トザロー(英語版)、マネージャーを務めたシドニー・チャップリン、常連俳優で助手のヘンリー・バーグマン、助監督のハリー・クロッカー(英語版)やチャールズ・ライスナー(英語版)などの協力者がおり、その助けを借りながら映画作りを行った。
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製作方法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 12:19 UTC 版)
黒澤は撮影に入る前に、まず被写体を本当にそれらしく作れるかどうかを重視した。リハーサルは他監督の作品よりもたくさん時間をかけ、俳優が役柄や性格をしっかりと掴み、演技が自然に見えるまで周到に稽古を重ねた。『どん底』では撮影期間が1ヶ月なのに対し、リハーサルにはそれよりも長い40日近くもかけている。また、役の雰囲気を作らせるために、本読みの段階から俳優に衣裳を着けさせたり、撮影期間中も俳優同士を役名で呼ばせたり、役で家族を演じる俳優たちを一緒に住まわせたりした。 セットも実在感を追求するためリアルに作られ、巨大なセットが組まれた。美術監督の村木与四郎も、黒澤作品のセットの特長を「みんな大きなロケセットを1つデーンと建てちゃう点」と語っている。画面に写らないような細部も作り込んでおり、『羅生門』では門の屋根瓦4000枚のすべてに年号が彫られ、『赤ひげ』では撮影のために焼いた茶碗に茶渋がつけられ、薬棚の引き出しの中にまで漆が塗られた。黒澤はある程度はリアリズムを徹底したが、必ずしも史実通りにすることにとらわれず、視覚的にどう写るかを優先して大胆にイメージを広げることもあった。『用心棒』の宿場町はシネマスコープの画面に合わせて道幅を広くしており、『蜘蛛巣城』の城門も実際の寸法より大きくしている。 黒澤の撮影方法は、複数のカメラでワンシーン・ワンショットの長い芝居を同時撮影するというもので、この手法は「マルチカム撮影法」と呼ばれた。マルチカム撮影法は『七人の侍』で決戦場面など撮り直すことが難しいシーンを、数台のカメラで一度に写すことから始まったもので、次作の『生きものの記録』から本格的に導入した。黒澤はこの手法を使うと俳優がカメラを意識しなくなり、思いがけず生々しい表情や姿勢を撮ることができ、普通の構図では考えつかないような面白い画面効果が得られるとしている。撮影監督の宮川一夫によると、黒澤は芝居が止まるのを嫌ってこの手法を使用したという。大抵のシーンでは2、3台のカメラを使用したが、『赤ひげ』では5台のカメラを使って8分に及ぶシーンを長回しで撮影した。 編集作業は黒澤自身が行った。黒澤は撮影を素材集めに過ぎないとし、それに最終的な生命を与えるのは編集であると考えていたため、他監督の作品のように編集担当に任せることはせず、自分で編集機を操作した。マルチカメラ撮影法を採用してからは、複数カメラで撮影した同じシーンのフィルムをシンクロナイザーにかけ、一番いいショットを選んで繋げるという方法で編集をした。複数カメラで長いシーンを撮影すると、スタッフは映像のイメージがつかみづらくなるため、黒澤は撮影したシーンのラッシュフィルムが仕上がるとすぐに編集してスタッフに見せ、ロケーションにも編集機を携行した。そのため撮影が終了する頃には、編集もほとんど済んでしまうことが多かった。
※この「製作方法」の解説は、「黒澤明」の解説の一部です。
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製作方法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/12/13 12:29 UTC 版)
穴を開ける手段として、 ウェットエッチング ドライエッチング反応性イオンエッチング(プラズマエッチング) レーザーエッチング ドリル (工具) などが用いられている。
※この「製作方法」の解説は、「ガス電子増幅器」の解説の一部です。
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製作方法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/15 07:17 UTC 版)
紙衣の原料には特に粘り強い紙を必要とし、十文字漉きされた繊維の絡みが強い美濃十文字紙など上質で厚い和紙が使用された。そして、それを柿渋を引いては乾かす作業を複数回行って晴天の日に一夜晒し、足で踏んだり手で揉んだりして柔らかくして紙衣を製造した。
※この「製作方法」の解説は、「紙衣」の解説の一部です。
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製作方法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 22:58 UTC 版)
製作方法や受け付け方法は各種あり、パソコンに編集ソフトをダウンロードして自分で編集するタイプ、事前に写真をアップロードしておきWEBで編集するフエルフォトブックのようなタイプ、スマートフォンやタブレットに専用アプリをインストールし編集するタイプ、FacebookやInstagramなどのSNSにアップロードした画像を使って編集するタイプ、店頭にメディアを持ち込んで編集する方法などが存在する。
※この「製作方法」の解説は、「フォトブック」の解説の一部です。
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