脚本について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/16 14:25 UTC 版)
「アラビアンナイト・シンドバッドの冒険 (映画)」の記事における「脚本について」の解説
脚本を担当した手塚治虫と北杜夫は、このときが初対面であった。なお、北によれば、実際に脚本の大部分を執筆したのは手塚である。シンドバッドの船に乗るペットの設定に関して、手塚は子猫を提案したのに対し、北は子クジラを提案した。手塚はそのアイデアに驚きつつもその通りに絵コンテを描いたが、東映動画側に「くじらが船の上に乗れるはずない」という理由で没にされたという。 北は企画が持ち上がった当初は、親友の辻邦生への手紙の中で、「一寸うれしいこと」「案外ぼくに打ってつけの仕事かと思います」(1960年8月12日付)と喜んでいたが、制作が進むにつれ「マンガ映画ダメだ。上の連中はとんでもない。ろくな映画になりそうにありません」(同年10月14日付)、「僕の思ってたものとは全くちがったものになる」(同年11月7日付)と、東映動画上層部の介入に対する不満を述べるようになる。北が同時期に執筆した少年向け作品『船乗りクプクプの冒険』(1961年 - 1962年連載、1962年刊)は、こうした不満から、自分流の『シンドバッドの冒険』のつもりで書いたものという。一方で、すでに『どくとるマンボウ航海記』でベストセラー作家となり、『夜と霧の隅で』で芥川賞を受賞していたにもかかわらず、兄(斎藤茂太)の子供たちからは馬鹿にされていたが、この映画で児童漫画の第一人者であった手塚と一緒に仕事したことで、ようやく尊敬されることになったという。 また、手塚も東映動画側の介入に不満を抱いており、同じく東映動画作品で原案・構成を担当した『わんわん忠臣蔵』(1963年)とともに、「それこそ、めちゃくちゃに作りかえられてしまい、ボクの感じはなにひとつ残っていません」と記している。手塚は北の起用自体にも批判的で、芥川賞作家であり優れたエッセイストでもある北を起用するのなら、既存の物語の脚色ではなくオリジナル作品を依頼すべきであったこと、同じ船乗りでも商人のシンドバッドと船医の北では視点が全く異なること、アニメーションの面白さの本質は物語ではなく動きにこそあるのであるが、熱心な漫画ファンではあってもアニメーションの制作現場に通じていない北にそのことを求めることは無理であること、の三点を挙げて東映動画を批判している。
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