脚本作り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/18 09:41 UTC 版)
「我等の生涯の最良の年」の記事における「脚本作り」の解説
フランシス・ゴールドウィン(英語版)は「タイム」誌が1944年8月7日号で除隊兵士について取り上げた「国内ニュース」の中の「帰還」と題された記事に何度も目を通し、注目した。彼女は夫のサミュエル・ゴールドウィンに帰郷した兵士達をテーマにしたドラマを製作すべきだと言い続け、しまいには彼も「絶対にそんなもんは作らないぞ」と宣言してしまった。 ところが、実際にはサミュエル・ゴールドウィンはその後にマッキンレー・カンターに兵士が帰還した第二次世界大戦後の映画の構想を話している。ゴールドウィンはカンターにタイムの記事を見せ、「あなた自身の経験から語るべきだと思う」物語を自由に展開させてほしいと依頼した。報酬として20000ドルが提示され、1944年9月8日にカンターは契約書にサインした。カンターが執筆した物語『Glory for Me』の脚本用の梗概は1945年1月に作成された。物語は無韻詩で書かれていた。 しかし、1945年8月14日の第二次世界大戦の日本の敗戦により、『Glory for Me』の脚色をするという契約に署名したロバート・E・シャーウッド(英語版)は、来年の春か秋には時代遅れのテーマになっているかもしれないし、神経症をすべての帰還兵につきもののように描けば「かなりの不満」さえ起こるかもしれないとしてあまり乗り気では無く、すぐに企画の中止を進言した。9月4日にゴールドウィンから送られた彼の強い決意を示す次の内容の電報(一部抜粋)がこのシャーウッドの考えを改めさせることになった。 「 ・・・私が6か月前よりももっと自信を強くしているのは、あのテーマは今よりも一年後の方が更に時節に合うと思うからだ。・・・市民の側から物語を見るというあなたのやり方は正しいし、言われるようにアメリカらしいユーモアを全体にちりばめれば、この作品はあなたの仕事の中でも特に優れたものとなることは間違いない。私が作りたいのは心を打つ感動的な物語だ。こちらであなたがおっしゃったことを聞いて、皆が適切な情熱を持ち続ければ、この映画は年間のベスト作品になると確信した。 」 ゴールドウィンから「ハリウッド的な映画にしなくてはいけないと思わないでくれ。それよりも、もっとシンプルで真実味のあるものを作りたい」と言われたシャーウッドは数ヶ月かけて物語を練り上げ、1946年4月9日に脚本を完成させた。
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