製作時の経緯
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「あばずれ (1965年の映画)」の記事における「製作時の経緯」の解説
1965年(昭和40年)4月、新しい映画製作会社・扇映画プロダクションを設立した斎藤邦唯(1929年 - )が、同社設立前に製作に携わった『悶える女子学生』(監督南部泰三、1964年11月公開)の現場で知り合った当時助監督の渡辺護に、成人映画を撮れる監督の紹介を依頼、渡辺はかつて師事した西條文喜(1921年 - 1988年)を推薦した。斎藤はもともと文学座出身の俳優であったが、スタッフに転向していた。渡辺は、西條が監督する前提で、脚本家の吉田義昭(1932年 - 1989年)とともに脚本を準備するが、脚本完成段階で西條が降板、急遽、渡辺が監督に起用されることになったという。渡辺の回想によれば、同作の構成は、西條のための脚本の段階でも『雪之丞変化』(監督衣笠貞之助、原作三上於菟吉、脚本伊藤大輔)であったが、自分が監督すると決まった段階で、それを強化し、さらに改稿したという。 スタッフ編成にあたり、マキノ正博が撮影所長であった時代の松竹下加茂撮影所出身の監督である関喜誉仁(1923年 - 没年不詳)が尽力、撮影技師として竹野治夫、照明技師として村瀬栄一が参加した。竹野は富国映画社で1932年(昭和7年)に技師に昇進、第一映画社や新興キネマを経て、関と同時代に松竹下加茂撮影所でキャリアを積んだヴェテランであり、村瀬は『酔いどれ天使』(監督黒澤明)のチーフ照明助手を務め、『二宮尊徳の少年時代』(監督村山新治)や『東京オリンピック』(総監督市川崑)といった記録映画・文化映画の照明を手がけたヴェテランであった。クレジット上は吉田義昭は「吉田貴彰」、竹野治夫は「生田洋」、村瀬栄一は「村井徹二」といった変名を使用し、関喜誉仁は「沖弘次」の名で「監修」に名を連ねた。音楽の小谷松実は、同作以降も『紅壺』、『浅草の踊子 濡れた素肌』、『うまず女』、『絶品の女』といった渡辺の初期作品の音楽スコアを書いた人物である。録音技師を務めた杉崎喬(1935年 - )は、当時は東京録音現像に所属したスタジオエンジニアであり、のちにニューメグロスタジオの常務取締役を務めた。編集技師の宮田二三夫は、1962年前後から1971年前後まで、多数の独立系映画の編集を務めたことがわかっている。 キャスティングに関しては、渡辺は当初、吉田が脚本を書いた『日本拷問刑罰史』(1964年)の森美沙を考えていたが、同作の監督の小森白を訪ねたところ、小森白プロダクション(のちの東京興映)で囲い込んでおり、貸出し拒否された。さる芸能事務所に所属する飛鳥公子を扇映画プロダクションの事務所に呼び、面接をしたところ、渡辺が冗談半分に「よく映画で見るとさあ、パンティーが不潔だったりするのあるからなあ。きれいなパンツはいてんだろうねえ」と言うと、飛鳥は「失礼ねえ。きれいかどうか、じゃあ、見て下さい」とその場でスカートをまくりあげたという。飛鳥の義母役の左京未知子については、かつて上野の大蔵貢系の映画館の支配人であった大島という人物が交渉し、決定している。左京は、撮影終了後、新人監督の渡辺に対し「あんた、いい監督になるわ。もっと早くあんたに会いたかった」と言ったという。 井川耕一郎によれば、同作は俳優の伊豆肇が出資したという。伊豆は、同作の前年、自ら監督した成人映画『おんな』を発表している。井川によれば、渡辺が使用した同作の印刷台本には『十七才の殺意 処女残酷』という別題が、手書きで記されていたという。 同作は、同年6月、新東宝興業(現在の新東宝映画)が配給、公開された。
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製作時の経緯
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1965年(昭和40年)4月、新しい映画製作会社・扇映画プロダクションを設立した俳優出身の映画製作者、斎藤邦唯(1929年 - )は、新人の渡辺護(1931年 - 2013年)を監督に抜擢、設立第1作『あばずれ』(配給新東宝興業)を同年6月に公開した。斎藤は次に、同作のスタッフ編成に協力し「沖弘次」名義で「監修」とクレジットされた関喜誉仁(1923年 - 没年不詳)に監督を依頼、同年8月10日公開の『嬲る』(配給新東宝興業)、同年9月21日公開の『妾の子』(配給ムービー配給社)を製作した。同社が次に製作した劇場用映画が、渡辺護の監督第2作『紅壺』である。 同作の脚本は、前作に引き続き吉田義昭(1932年 - 1989年)が執筆した。物語は『情婦マノン』(監督アンリ=ジョルジュ・クルーゾー、1949年)を下敷きにしたものであった。『情婦マノン』の原作は、アベ・プレヴォーの長篇小説『マノン・レスコー』(1731年)であり、渡辺は本作をもって、18世紀フランスのファム・ファタール的な物語を1960年代の日本に置き換えたといえる。スタッフ編成に関しては、撮影技師に門口友也、照明技師に前作に引き続き村瀬栄一、音楽スコアは同じく小谷松実、録音技師も同じく杉崎喬(1935年 - )、編集技師も同じく宮田二三夫が参加した。クレジット上は前作に引き続き吉田義昭は「吉田貴彰」、門口友也は「大森一郎」、村瀬栄一は「村井徹二」といった変名を使用している。門口友也は1957年(昭和32年)8月11日に公開された『森繁の僕は美容師』(監督瑞穗春海、製作宝塚映画製作所)で撮影技師飯村正のセカンド助手としてクレジットされた人物であり、その後、技師に昇進し1963年(昭和38年)9月3日に公開された『甘い罠』(監督若松孝二、製作東京企画)をはじめとして独立系成人映画を手がけた。杉崎喬は、当時は東京録音現像に所属したスタジオエンジニアである。撮影助手にクレジットされている「鈴木四郎」は、のちに渡辺護の常連撮影技師となる鈴木史郎(鈴木志郎とも)である。 キャスティングに関しては、脚本完成後、主演は今回も前作同様に飛鳥公子か、と検討していたとき、扇映画プロダクションの事務所に、曾我廼家五一郎(1879年 - 没年不明、本名谷光逸雄)の息子に当たる人物が連れてきた女優がいた。それが真山ひとみであり、渡辺護の回想によれば、『あばずれ』の主演に当初考えていた『日本拷問刑罰史』(監督小森白)の森美沙よりも「よかった」「スターになれる子だった」という。主人公の相手役には前作に引き続き黒木純一郎、主人公が所属するモデルクラブ社長役に前作で主人公(飛鳥公子)の父親を演じた千田啓介、 バー経営者役に岩城力也、業界紙の編集長役に上野山功一が出演している。ただし上映用プリントから書き起こした記述が掲載されている、東京国立近代美術館フィルムセンター所蔵作品の同作の項には、「上野山功一」名義のクレジットはない。 同作は、同年10月12日、関東を中心にセンチュリー映画社(本社・東京、1964年10月設立)、関西を中心に日本セントラル映画(本社・大阪、1964年4月設立)がそれぞれ配給して、公開された。それぞれの配給会社によるヴァージョン違いのポスターが現存する。主演の真山ひとみの出演作は、同作の前に、日活が製作・配給した藤江リカの主演作『処女喪失』(監督井田探(フランス語版)、同年6月20日公開、映倫番号 13979)に助演しただけであり、『処女喪失』『紅壷』の2作以外の出演歴が見当たらない。したがって神戸映画資料館での『紅壺』上映の際の説明に「後に日活に移り活躍した」という記述があるが、この記述を裏付ける出演作品が存在しない。 渡辺護は、同作に引き続き、監督第3作『情夫と牝』(脚本奈加圭市、配給ムービー配給社)を同社で監督、同年10月に映倫審査を受け、同年11月2日に公開、監督第4作『浅草の踊子 濡れた肌』(脚本栄町はじめ、配給センチュリー映画社)を同社で監督、同年11月に映倫審査を受け、翌1966年1月に公開されている。
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