製作時の経緯とは? わかりやすく解説

製作時の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/23 04:16 UTC 版)

あばずれ (1965年の映画)」の記事における「製作時の経緯」の解説

1965年昭和40年4月新し映画製作会社扇映画プロダクション設立した斎藤邦唯1929年 - )が、同社設立前に製作に携わった悶える女子学生』(監督南部泰三1964年11月公開)の現場で知り合った当時助監督渡辺護に、成人映画撮れる監督紹介依頼渡辺はかつて師事した西條文喜1921年 - 1988年)を推薦した斎藤はもともと文学座出身俳優であったが、スタッフ転向していた。渡辺は、西條監督する前提で、脚本家吉田義昭1932年 - 1989年とともに脚本準備するが、脚本完成段階西條降板急遽渡辺監督起用されることになったという。渡辺回想によれば同作構成は、西條のための脚本段階でも『雪之丞変化』(監督衣笠貞之助原作三上於菟吉脚本伊藤大輔であったが、自分監督する決まった段階で、それを強化し、さらに改稿したという。 スタッフ編成にあたりマキノ正博撮影所であった時代松竹下加茂撮影所出身監督である関喜誉仁1923年 - 没年不詳)が尽力撮影技師として竹野治夫、照明技師として村瀬栄一参加した竹野富国映画社1932年昭和7年)に技師昇進第一映画社新興キネマ経て、関と同時代松竹下加茂撮影所キャリア積んだヴェテランであり、村瀬は『酔いどれ天使』(監督黒澤明)のチーフ照明助手務め、『二宮尊徳少年時代』(監督村山新治)や『東京オリンピック』(総監市川崑)といった記録映画文化映画照明を手がけたヴェテランであったクレジット上は吉田義昭は「吉田貴彰」、竹野治夫は「生田洋」、村瀬栄一は「村井徹二」といった変名使用し関喜誉仁は「沖弘次」の名で「監修」に名を連ねた音楽小谷松実は、同作以降も『紅壺』、『浅草踊子 濡れた素肌』、『うまず女』、『絶品の女』といった渡辺初期作品音楽スコア書いた人物である。録音技師務めた杉崎喬1935年 - )は、当時東京録音現像所属したスタジオエンジニアであり、のちにニューメグロスタジオの常務取締役務めた編集技師宮田二三夫は、1962年前後から1971年前後まで、多数独立系映画編集務めたことがわかっている。 キャスティングに関しては、渡辺当初吉田脚本書いた日本拷問刑罰史』(1964年)の森美沙考えていたが、同作監督小森白訪ねたところ、小森白プロダクション(のちの東京興映)で囲い込んでおり、貸出し拒否された。さる芸能事務所所属する飛鳥公子扇映画プロダクション事務所呼び面接をしたところ、渡辺冗談半分に「よく映画で見るとさあ、パンティー不潔だったりするのあるからなあ。きれいなパンツはいてんだろうねえ」と言うと飛鳥は「失礼ねえ。きれいかどうか、じゃあ、見て下さい」とその場スカートまくりあげたという。飛鳥義母役の左京未知子については、かつて上野大蔵貢系の映画館支配人であった大島という人物交渉し決定している。左京は、撮影終了後、新人監督渡辺対し「あんた、いい監督になるわ。もっと早くあんたに会いたかったと言ったという。 井川耕一郎によれば同作俳優伊豆肇出資したという。伊豆は、同作前年、自ら監督した成人映画『おんな』を発表している。井川によれば渡辺使用した同作印刷台本には『十七才の殺意 処女残酷』という別題が、手書き記されていたという。 同作は、同年6月新東宝興業現在の新東宝映画)が配給公開された。

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製作時の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/08 09:42 UTC 版)

紅壺」の記事における「製作時の経緯」の解説

1965年昭和40年4月新し映画製作会社扇映画プロダクション設立した俳優出身映画製作者斎藤邦唯1929年 - )は、新人渡辺護1931年 - 2013年)を監督抜擢設立第1作あばずれ』(配給新東宝興業)を同年6月公開した斎藤次に同作スタッフ編成協力し沖弘次名義で「監修」とクレジットされた関喜誉仁1923年 - 没年不詳)に監督依頼同年8月10日公開の『嬲る』(配給新東宝興業)、同年9月21日公開の『妾の子』(配給ムービー配給社)を製作した同社次に製作した劇場用映画が、渡辺護監督第2作紅壺』である。 同作脚本は、前作引き続き吉田義昭1932年 - 1989年)が執筆した物語は『情婦マノン』(監督アンリ=ジョルジュ・クルーゾー1949年)を下敷きしたものであった。『情婦マノン』の原作は、アベ・プレヴォー長篇小説マノン・レスコー』(1731年)であり、渡辺本作をもって18世紀フランスファム・ファタール的な物語1960年代の日本置き換えたといえるスタッフ編成に関しては、撮影技師門口友也照明技師前作引き続き村瀬栄一音楽スコア同じく小谷松実、録音技師同じく杉崎喬1935年 - )、編集技師同じく宮田二三夫が参加したクレジット上は前作引き続き吉田義昭は「吉田貴彰」、門口友也は「大森一郎」、村瀬栄一は「村井徹二」といった変名使用している。門口友也1957年昭和32年8月11日公開された『森繁の僕は美容師』(監督瑞穗春海、製作宝塚映画製作所)で撮影技師飯村正のセカンド助手としてクレジットされた人物であり、その後技師昇進し1963年昭和38年9月3日公開された『甘い罠』(監督若松孝二、製作東京企画)をはじめとして独立系成人映画を手がけた。杉崎喬は、当時東京録音現像所属したスタジオエンジニアである。撮影助手クレジットされている「鈴木四郎」は、のちに渡辺護常連撮影技師となる鈴木史郎鈴木志郎とも)である。 キャスティングに関しては、脚本完成後、主演今回前作同様に飛鳥公子か、と検討していたとき、扇映画プロダクション事務所に、曾我廼家五一郎(1879年 - 没年不明本名谷光逸雄)の息子に当たる人物連れてきた女優がいた。それが真山ひとみであり、渡辺護回想によれば、『あばずれ』の主演当初考えていた『日本拷問刑罰史』(監督小森白)の森美沙よりも「よかった」「スターになれる子だった」という。主人公相手役には前作引き続き黒木純一郎主人公所属するモデルクラブ社長役に前作主人公飛鳥公子)の父親演じた千田啓介バー経営者役に岩城力也業界紙編集長役に上野山功一出演している。ただし上映プリントから書き起こした記述掲載されている、東京国立近代美術館フィルムセンター所蔵作品同作の項には、「上野山功一名義クレジットはない。 同作は、同年10月12日関東中心にセンチュリー映画社本社東京1964年10月設立)、関西中心に日本セントラル映画本社大阪1964年4月設立)がそれぞれ配給して、公開された。それぞれの配給会社によるヴァージョン違いポスター現存する主演の真山ひとみの出演作は、同作前に日活製作・配給した藤江リカ主演作処女喪失』(監督井田探フランス語版)、同年6月20日公開映倫番号 13979)に助演しただけであり、『処女喪失』『紅壷』の2作以外の出演歴見当たらない。したがって神戸映画資料館での『紅壺上映の際の説明に「後に日活移り活躍した」という記述があるが、この記述裏付ける出演作品存在しない渡辺護は、同作引き続き監督第3作情夫と牝』(脚本奈加圭市配給ムービー配給社)を同社監督同年10月映倫審査を受け、同年11月2日公開監督第4作浅草踊子 濡れた肌』(脚本栄町はじめ配給センチュリー映画社)を同社監督同年11月映倫審査を受け、翌1966年1月公開されている。

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