女子高等教育機関設立に尽力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 08:15 UTC 版)
「広岡浅子」の記事における「女子高等教育機関設立に尽力」の解説
土倉庄三郎の紹介により、1896年(明治29年)、梅花女学校の校長であった成瀬仁蔵の訪問を受け、成瀬の著書である『女子教育』を手渡される。幼い頃に学問を禁じられた体験を持つ浅子は『女子教育』に大いに共感し、金銭の寄付のみならず、成瀬と行動を共にして政財界の有力者に協力を呼びかけるなど、強力な援助者となる。広岡家、実家の三井家一門に働きかけ、三井家から目白台の土地を寄付させるに至り、1901年(明治34年)の日本女子大学校(現・ 日本女子大学)設立に導く。日本女子大学校の発起人の一人であり、創立当初の評議員となる。また夫(広岡信五郎)は女子大学校の創立委員の一人である。
※この「女子高等教育機関設立に尽力」の解説は、「広岡浅子」の解説の一部です。
「女子高等教育機関設立に尽力」を含む「広岡浅子」の記事については、「広岡浅子」の概要を参照ください。
- 女子高等教育機関設立に尽力のページへのリンク