梅花女学校
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 01:21 UTC 版)
伝道活動を行う一方で女子教育にも携わり、明治11年(1878年)に成瀬仁蔵の協力を得て梅花女学校(現在の学校法人梅花学園)を設立。成瀬に梅花女学校を託した。同年4月に、沢山は田島たかと梅花女学校で結婚式を挙げた。 1879年10月21日父源之丞が死去する。臨終の床で信仰を告白して、保羅から受洗した。父の臨終に立ち会った母いわと弟雄之助もキリスト教信仰をもった。沢山は母を大阪に引き取り、弟雄之助を同志社に入学させた。 1979年から岸和田地方の伝道に取り組んだ。岸和田は旧藩主岡部長職の依頼で、松尾敬吾を定住伝道者として伝道を始めた。1885年(明治18年)9月に岸和田教会が設立された。 1878年2月には浪花教会員が天満地区へ福音宣教をしたことをきっかけに、1880年に沢山を兼任として教会を設立した。しかし、1881年1月には、病床にあった沢山が牧師を辞職した。 1879年に沢山の病状は悪化して1881年10月には次女ちかが生まれた。しかし、12月にはちかを亡くした。1881年11月には母いわが死去して岩崎墓地に埋葬された。
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