重盛の死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:17 UTC 版)
治承3年(1179年)7月、清盛の後継者と目されていた父・重盛が病死し、叔父の平宗盛が平氏の棟梁となると、維盛ら重盛の息子達は平氏一門で微妙な立場となる。重盛の母方には有力な親族がおらず、鹿ケ谷の陰謀で殺害された藤原成親の妹が妻であったことで、重盛の後継者としての地位が生前から揺らいでいた。また、維盛自身も成親の娘を娶っていたことがいっそう影響していた。そうした中で重盛の死後に後白河法皇が重盛の知行国越前国を没収したことは、重盛の遺児である維盛らの生活基盤を脅かすものであり、重盛一族(小松家)の離反回避に努めていた清盛を強く刺激した。一知行国に過ぎない越前国を巡る対立が治承三年の政変による後白河法皇幽閉にまで発展した背景には、清盛と重盛及びその子供達との微妙な関係があったと考えられている。
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