清盛の死と反乱の激化
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同年12月、本格的に内乱鎮圧に乗り出した清盛の命により、知盛は甥・平資盛と共に大将軍として出陣し、京近郊の反乱軍を鎮圧した(近江攻防・美濃源氏の挙兵)。同時期に重衡による南都焼討があり、治承5年(1181年)2月までに畿内の反平氏勢力は鎮圧された。翌治承5年(1181年)2月、清盛の命令で東国追討も命じられたが、この時に病に倒れて京都に戻ることを余儀なくされ、大将は重衡に交代となった。重衡の東国追討使は鎮西(九州)の情勢悪化により、鎮西への派遣に変更される。清盛は東国鎮圧に向けて宗盛を畿内惣官職として総力戦体制の構築を計り、閏2月上旬には宗盛を総大将として東国追討軍の派遣が予定されていたが、その準備の最中の2月26日、清盛が病に倒れて重衡の鎮西・宗盛の東国追討軍派遣は中止される。治承5年(1181年)閏2月4日、清盛が死去する。その遺言は一門最後の1人まで頼朝と戦えというものであった。 棟梁宗盛は清盛の強硬路線を否定して後白河院に政権返上を申し出るが、朝廷による反乱源氏軍との和平案は拒否、軍事の実権は依然として平家が握り、実力による反乱鎮圧に固執する事になる。これは平家内では主戦論が大勢を占めており、一門結束のために清盛の遺言に従う必要があった事を物語っている。3月、墨俣川の戦いで平氏軍が勝利する。 惣官宗盛は4月に原田種直を太宰権少弐に補任し8月には家人の平貞能を鎮西に派遣して反乱鎮圧を図り、東国では城助職・藤原秀衡ら地方の有力武士を国司に任じて反乱鎮圧を働きかけるが効果はなく、8月から10月にかけての北陸追討も失敗した。10月の平氏遠征軍の編成では最も重要な洛中守護には棟梁・宗盛のもと、叔父の教盛・経盛・頼盛と知盛が担当した(『玉葉』10月10日条)。この時、宗盛とともに洛中に留まった者が政権中枢にあったと考えられる。各地の反乱勢力が割拠する最中の7月頃、鎌倉で東国経営に専念している源頼朝から後白河院に密使が送られ、平氏との和平を提案されるが、平氏は清盛の遺言を盾に拒否している。この年の後半から、養和の大飢饉により一時事態は膠着する。 西国の飢饉の状況が落ち着いてきた翌寿永2年(1183年)4月、京の食料の生命線である北陸道平定のため、平維盛を大将として平氏の総力を結集した大軍を派遣する。しかし5月の倶利伽羅峠の戦いと6月の篠原の戦いで壊滅的な敗北を喫し、木曾義仲ら反乱軍は勢いを得て京を目指して進撃してくる事になる。 7月半ば、平氏軍は京を目前にした義仲ら反乱軍を迎え撃つため、一門を畿内各所に派遣し、平忠度は100騎の軍勢で丹波国へ、平資盛・平貞能は1,000騎で宇治田原に、平頼盛は山科へ、知盛は重衡と共に2,000騎の軍勢で勢多に向かった。しかし摂津国の多田行綱が反乱軍に同調して西日本への海上ルートを封鎖する動きを見せると、宗盛は包囲される前に伝統的平氏の地盤である西国へ下向して態勢を立て直す方針へ転換、7月24日、各地に派遣されていた諸将は都に呼び戻される。
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