清盛の死と反乱の激化とは? わかりやすく解説

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清盛の死と反乱の激化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:57 UTC 版)

平知盛」の記事における「清盛の死と反乱の激化」の解説

同年12月本格的に内乱鎮圧乗り出した清盛の命により、知盛は甥・平資盛と共に大将軍として出陣し京近郊の反乱軍鎮圧した近江攻防美濃源氏の挙兵)。同時期に重衡による南都焼討があり、治承5年1181年2月までに畿内の反平氏勢力は鎮圧された。翌治承5年1181年2月清盛命令東国追討命じられたが、この時に病に倒れて京都に戻ることを余儀なくされ、大将重衡交代となった重衡東国追討使鎮西九州)の情勢悪化により、鎮西への派遣変更される清盛東国鎮圧向けて宗盛畿内惣官職として総力戦体制構築計り、閏2月上旬には宗盛総大将として東国追討軍の派遣予定されていたが、その準備最中2月26日清盛が病に倒れて重衡鎮西宗盛東国追討派遣中止される治承5年1181年)閏2月4日清盛死去する。その遺言一門最後1人まで頼朝戦えというものであった棟梁宗盛清盛強硬路線否定して後白河院政権返上申し出るが、朝廷による反乱源氏軍との和平案は拒否軍事実権依然として平家握り実力による反乱鎮圧固執する事になる。これは平家内では主戦論大勢占めており、一門結束のために清盛の遺言に従う必要があった事を物語っている。3月墨俣川の戦い平氏軍勝利する惣官宗盛4月原田種直太宰権少弐補任8月には家人平貞能鎮西派遣して反乱鎮圧図り東国では城助職藤原秀衡地方の有力武士を国司任じて反乱鎮圧働きかける効果はなく、8月から10月にかけての北陸追討失敗した10月平氏遠征軍編成では最も重要な洛中守護には棟梁宗盛のもと、叔父の教盛・経盛・頼盛と知盛担当した(『玉葉10月10日条)。この時、宗盛とともに洛中に留まった者が政権中枢にあった考えられる各地反乱勢力割拠する最中7月頃、鎌倉東国経営専念している源頼朝から後白河院密使送られ平氏との和平提案されるが、平氏清盛の遺言を盾に拒否している。この年後半から、養和の大飢饉により一時事態膠着する。 西国飢饉状況落ち着いてきた翌寿永2年1183年4月、京の食料生命線である北陸道平定のため、平維盛大将として平氏総力結集した大軍派遣する。しかし5月倶利伽羅峠の戦い6月篠原の戦い壊滅的な敗北喫し木曾義仲反乱軍勢い得て京を目指し進撃してくる事になる。 7月半ば平氏軍は京を目前にした義仲反乱軍迎え撃つため、一門畿内各所派遣し平忠度100騎の軍勢丹波国へ、平資盛平貞能は1,000騎で宇治田原に、平頼盛山科へ、知盛重衡と共に2,000騎の軍勢勢多向かった。しかし摂津国多田行綱反乱軍同調して西日本への海上ルート封鎖する動き見せると、宗盛包囲される前に伝統的平氏地盤である西国下向して態勢立て直す方針転換7月24日各地派遣されていた諸将都に呼び戻される

※この「清盛の死と反乱の激化」の解説は、「平知盛」の解説の一部です。
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