白河騒動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 15:26 UTC 版)
宇都宮を経て白河に入封するが、白河藩時代に、忠弘の後継者をめぐって家臣団を巻き込む騒動が勃発する。 長男の鶴千代(長じて主税清照)の他にも3人の男子がいたと言われるが、いずれも夭逝しており、頼みの清照も健康面で不安があった。そこで次女・長福姫の婿の乗守(松平乗久の長男)を無理を承知で頼み込み、養嗣子として貰い受けた(忠尚)。だが、忠尚の子・仙千代が夭逝、さらに長福姫もその半年後に死去し、忠尚の存在価値は薄れた。50歳を過ぎた忠弘の跡目が定まらない深刻な事態は、家臣たちにも焦りを生んだ。しかも騒動の決め手となったのは、家督から遠ざけられていた清照に男子・斎宮(後の左膳忠雅)が誕生したことである。おかげで家臣は婿派と孫派に分裂し、白河騒動と呼ばれる対立関係にまで悪化した。家臣が続々と退去し、その総勢が93名に及んだという。 これが幕府の知るところとなる。忠弘の遠縁でもある老中・大久保忠朝は先んじて忠弘の家臣を呼びつけ、幕閣の正式決定が下る前に忠弘の自主的隠居を勧めている。だが、その後に決定された処分内容は、両派の首魁であった家老両名を遠島流罪、それだけに留まらず所領も召し上げという厳しいものであった。 翌月には決定が一部覆された。10万石への減封と山形への国替え処分に軽減されたため、改易の危機だけは免れた。父祖たちの忠勤、加えて神君家康の血統でもあった点が考慮されたものと考えられている。 騒動の責を重く受け止めて、忠弘は同時に隠居し、家督は孫の斎宮に継がせた。9歳の斎宮には5代将軍・徳川綱吉の拝謁と同時に、忠弘自身の隠居も承認されている。当家においては下総守が当主を示すものでもあるため、隠居後の忠弘は刑部大輔となった。
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