奥平松平家の時代
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次に藩主となったのは奥平松平家の当主・松平忠雅で、備後福山藩から10万石で入った。この奥平松平家は徳川家康の重臣・奥平信昌と家康の長女・亀姫との間に生まれた四男・松平忠明の系統である。奥平松平家は元禄4年(1691年)に忠雅の祖父・松平忠弘が陸奥白河藩主だった時に白河騒動と称される御家騒動を起こして5万石削減と家老の処罰、出羽山形藩への左遷移封など処罰を受けていた家であったが、忠弘の跡を継いだ忠雅は中興の名君として学問の振興や寺社の改築などを行った。延享3年(1746年)に忠雅は死去し、四男の松平忠刻が第2代藩主を継いだ。この忠刻の時代に宝暦治水が行われて薩摩藩では平田靭負以下病死者32人、自殺者52人を出して幕府と桑名藩に対する怨念が残った。忠刻は明和8年(1771年)に隠居し、次男の松平忠啓が第3代藩主となる。この時代には天明2年(1782年)に4度の洪水が起こって被害が大きく、それに連鎖して年貢減免を求める百姓一揆も起こる始末で、藩財政も悪化した。 天明6年(1786年)に忠啓が死去すると、家督は婿養子で紀州徳川家の出身の松平忠功が第4代藩主となり、寛政期に学問の奨励を中心とした改革を行うが、病弱のため寛政5年(1793年)に隠居した。第5代藩主には忠功の実弟・松平忠和が継ぎ、学問の振興を行い藩校・進修館を創設した。享和2年(1802年)に忠和は死去し、家督は越後与板藩から迎えた婿養子の松平忠翼(ただすけ)が第6代藩主を継いだ。忠翼は文政4年(1821年)に死去し、長男の松平忠堯が第7代藩主を継いだ。そして文政6年(1823年)3月24日、忠堯は武蔵忍藩に移封を命じられるが、これに反対する一揆も起こるほどだった(文政桑名農民一揆)。これは藩が農民から講金を預かり藩財政の助成に当てていたが、突然の移封命令で返済できぬままに忍に移ろうとしたためで、藩は豪商の山田彦右衛門に肩代わりしてもらって共に忍藩に移った。しかし移封準備の最中に一揆が起こったので藩士も農民も動揺し、農民一揆で庄屋は20も襲われ、一揆の鎮定には周囲の藩から援軍を得て鎮定して一揆の首謀者は処刑された。この引っ越しの移動では漬物樽や墓石まで持って引っ越す家族までおり、忍に12日から13日かけてようやく到着しても武士やその家族が住むための家の数が足りず、やむなく共同生活を強いられて人々は桑名時代の愚痴をこぼしたという。これは奥平松平家が白河騒動で5万石を削減されていたのに家臣の数を減らしておらず、忍藩主だった阿部家は家臣が391人だったのに対して奥平松平家はその3倍も存在したからであり、藩では大慌てで住居の増設を行ったが、このために奥平松平家は桑名時代の借財から引越し費用、引越し後の費用で合計して10万両以上の借財を築き上げた。
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奥平松平家の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 05:05 UTC 版)
奥平昌能の後に、山形藩から入れ替わりで松平忠弘が15万石で入る。この奥平松平家は奥平家と同族で、忠弘の父松平忠明は奥平信昌と亀姫の四男、家昌の実弟で、忠昌と忠弘は従兄弟の関係にあった。忠弘は領内の新田検地を行ったが、わずか13年の支配に終わったため特段する治績はない。天和元年(1681年)に陸奥白河藩へ移封された。
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