奥平松平家・榊原家・本多家(再封)・越前松平家時代
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代わって郡山から家康の外孫松平忠明が入封するが1644年に没し、嫡子が幼いことから1648年に奥平松平家は出羽山形に転封となった。以後、15万石をもって譜代・親藩の名門が姫路を領し、播磨が要衝である故をもって幼君が出れば転出することが繰り返された。奥平松平家と交代で山形より直基系越前松平家が入ったが、(松平直矩が幼少のため)越後村上に転封、陸奥白河より榊原家が入って(榊原政倫が幼少のため)越後村上に転封、交代で越後村上より再び直基系越前松平家(成人した松平直矩)が入って(直矩が咎を受けたため懲罰で)豊後日田に転封、陸奥福島より再び本多家が入って(本多忠孝が幼少のため)越後村上に転封し、交代に越後村上から再び榊原家が入った。 1704年に再入封した榊原家は、本多忠勝と並ぶ徳川四天王の榊原康政を祖とする譜代の名門で、3代30年以上にわたって姫路藩15万石を領したが、第8代当主政岑のとき、8代将軍・徳川吉宗の倹約令を無視して派手を好み、吉原遊廓の花魁を大名自ら身請けするなどの遊興が幕府の怒りを買い、政岑は隠居の上、榊原家は豊かな西国の姫路から内高が少なく実収の乏しい北国の越後高田15万石に懲罰的転封された。しかしこれも、隠居に伴い相続した後継の榊原政純が幼少のため、という理由もある。 1741年に榊原家に代わって再び入封した越前松平家も、その8年後には松平朝矩の幼少を理由に上野前橋へ転封された。
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